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紫がたり 令和源氏物語 第二百二十八話 胡蝶(三)

 胡蝶(三)
 
女房達の舟がそれぞれ池の端に控えると、龍頭と鷁首の二艘の舟が池の中央に進み出てきました。
舟には雅楽寮(うたづかさ)から召した楽人が乗っています。
澄み渡る空に吸い込まれるような笙の音から静かに楽が始まりました。
 楽の音が高まるとそれに合わせて女房たちの遊びも再開し、水面之桜を掬おうと白い手をかざしたり、たのしげに矯声をあげております。
この庭には他では散ってしまった桜が未だ咲き誇っているのが不思議で廊の廂に伝う藤もこぼれるように咲いています。
うっすらと春霞がけぶり、ここは“まほろば”ではあるまいか、とみな己の目を疑うような素晴らしい光景なのでした。

集まった貴族達はこの光景にも大層驚きました。
女房たちでさえ天女と見まがうほどにこれだけ美しいとあれば、源氏の大臣秘蔵の姫はさらに美しかろうとつい好色心が掻き立てられるのです。
そのうちに酒や肴などを携えた女童や女房たちが給仕してまわり、大宴会となりました。

夕暮れになると舟遊びの女房達が船から上がり、釣り殿に一同が会した艶やかな様は言うまでもありません。
まさに地上の花園。さらに宴に華やぎを添えました。

貴公子達も源氏にアピールせねば、と楽の得意なものは笛を取り出し、歌が得意なものはさらさらとしたためます。
各々が思うままに興じて春の御殿の趣を楽しむ、まさに謳春の宴。
 春の陽は長いといいましても、楽しい時間ばかりは早く過ぎていくようで、日が暮れても物足りなく思う者たちも多く、源氏は庭に篝火を焚かせました。
楽の音色もそれまでの明るかったもの(呂旋法/長調)からしっとりとした落ち着いた風情(律旋法/短調)に変わり、楽人に代わって貴公子たちが琴などを奏で始めました。
源氏の弟で無類の風流人、かつて帥の宮と呼ばれていた親王は、今は兵部卿宮となっておられました。あの須磨・明石を源氏がさすらう前日にも人目を憚らず別れを惜しみに訪れた君です。
兵部卿宮は長く連れ添った北の方を三年前に亡くし、それからずっと独り身を通しておいででしたので、玉鬘姫を妻にと望んでいるようです。
なかなかの美男子ですし、性格も好もしい御方です。
あでやかな藤のひと房を挿頭として、心地よく酔っている様がいかにも優美で男盛りの色香が漂っております。
源氏は密かにこの弟を玉鬘の婿に、とも考えております。
源氏が酒を勧めると、
「憧れの君がいらっしゃらなければもう退出していたところですよ。兄上、これ以上のご酒は勘弁してください」
「それでは最後までお付き合いくださいよ。どうやらライバルたちも帰る気はさらさらないようですよ」
「ううむ、俄然ここで引くわけにはいかなくなりましたね」
 
兵部卿宮: 紫の故に心をしめたれば
        淵に身投げん名やは惜しけき
(藤の紫のよしみで玉鬘姫を想い染めたようです。たとえ淵に身投げをするとしても、愛しい姫のためならば浮名がたっても惜しくはありませんよ)
 
源氏: 淵に身を投げつべしやとこの春は
       花のあたりを立ちさらで見よ
(本当に身を投げるかどうか、この春は玉鬘姫を想い続けてその実際の美しさを確かめてみてはいかがですか)
 
源氏は喜色満面で宮と共に「青柳」という歌を唄われました。
兄弟の美声は溶け合うように心地よく、春の宵は明けてゆくのでした。

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