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紫がたり 令和源氏物語 第四百十八話 夕霧(二十一)

 夕霧(二十一)
 
一条邸では宮が変わらずに塗籠に籠っておられるのを女房たちは子供っぽい有様だと嘆いておりました。
「このような様子が漏れ聞こえて思慮分別の浅いように吹聴されては宮さまのお名前に疵がつきます。どうしたらよいのでしょう」
「宮さま、今日はいつもの御座所でお過ごしあそばして、御心の裡を大将の君に申しあげては如何でしょうか」
宮もなるほどそれも尤もと思召されるのですが、服喪であるのに押し入ってくるような夕霧の強引さが疎ましくてならないのです。
女心というものは繊細で複雑なもの。
ましてや宮は母・御息所が亡くなられた要因の一端は夕霧の振る舞いにあると考えておられますので、殊更その意に従うのが躊躇われるのです。
しかしそれは宮の表向きの姿勢であって、裏側には複雑な女心が隠されております。
柏木との結婚生活は幸せなものではありませんでした。
柏木は上昇志向で皇女という肩書にこだわりを持った人で、少年時代から密かに憧れていた女三の宮を所望したのですが、朱雀院が柏木に許したのは女二の宮であったのです。
その叶わなかった想いは女二の宮を貶めるという結果を招いたわけですが、宮はその柏木の冷たい扱いに女人としての自信を失っておりました。
どうして宮ほど嗜みの深い美しい女人が貶められねばならぬのか。
柏木はその頃順調に昇進をして飛ぶ鳥を落とすほどの権勢でしたので、その驕りと得られなかった恋への執着がそうさせたのでしょう。
しかし事情を知らぬ宮にはただただ柏木の仕打ちが恨めしく、落葉宮と貶められた己に何が足りなかったのかと苦悩の日々を送られていたのです。
宮は薄暗い塗籠の中で鏡をのぞきこみ、深い溜息をつかれました。
「髪もこんなに少なくなって、昔のような輝きも今のわたくしにはないのだわ。このような身が殿方に愛されるわけがない」
宮とて皇女である前に一人の女人なのです。
夕霧の美しい姿や優しい心遣い、これまで一線を越えてこなかった誠実さなどは身に沁みてよくわかっているのです。
亡き柏木よりもずっと素晴らしい男性であることをすでに知っている宮にとって、慕う心を抑えるのは容易ではありませんでした。
公然と求愛されてどれほど嬉しかったことか。
しかし夕霧が柏木と同じように失望して去ってしまえば、宮の女人としてのプライドは粉々に砕け散ってしまうことでしょう。
人は愛を前にするとそれを失うことに畏れ慄く脆い生き物なのです。
宮は鏡から目を背けるようにして臥してしまわれました。
 
女二の宮の御心を知らない夕霧はいまだ塗籠に籠っていらっしゃると聞いて、そのつれない仕打ちを悲しく思いました。
夕霧の男としてのプライドも大きく傷つけられているのです。
しかしこのまま引き下がることも出来ぬので、東の対で夜を明かしました。
眠れぬ夜を過ごすうちに思い浮かぶのはあの雲居雁の泣き顔でした。
想いあった妻をあのような目に遭わせておきながら、こちらの宮も娶ることができなければ何のための一大決心であったのか。
もう二度と恋などの面倒ごとは金輪際ご免だ、と夕霧の心も露が下りるように冷えてゆくのでした。
小少将の君はやはりこの大将を好もしく思っているので、気の毒で仕方がありません。
「宮さまは服喪中はひたすら御供養をと考えていらしたので、戸惑っていられるのですわ」
「そうであろうね。私は宮の御心を尊重しようと考えているので、喪があけるまでは褥を共にしなくとも夫婦の形ばかりでよいと思っているのだよ。しかしこう塗籠から出てきてもらえぬとなると寂しくてならない」
「お察しいたしますわ」
「意地悪を言いたくはないのだが、このままつれないあしらいを受けるようではここへ来る気概も失せてしまいそうだ。そうなると宮は私に捨てられたという噂も立ちかねぬなぁ」
小少将の君は大将の言うとおりになれば、宮さまにとっても痛手となろう、と女房たちが出入りする北の入り口から夕霧を塗籠に案内しました。

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