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紫がたり 令和源氏物語 第七十六話 賢木(五)

 賢木(五)

今年に入ってから桐壺院がお体の不調を訴えられることが度々ありました。
藤壺の中宮の手厚い看護も空しく、院は益々ご容体が悪化し、十月に入る頃には重体に陥ってしまわれました。
在世には優れて世を治められた院なので、人々の嘆きは並々のものではありません。
朱雀帝も大変なご心痛で父院のお見舞いにと行幸あそばされました。
病床で院は帝に言葉を遺されました。
「帝は立派になられましたね。その御心で春宮をくれぐれも頼みますよ。そして源氏を決して粗略に扱ってはなりません。源氏はいずれ国家を支えていく器を持っているので、親王とはせずに臣下へと下したのです。国の為、民の為にもないがしろにしてはいけませんよ」
そう繰り返し仰るので、帝は涙を流しながら、御心に従いますと何度も頷かれるのでした。


数日後には藤壺の中宮がお産みになった春宮が行幸し、父院を見舞われました。
御年五歳におなりで、源氏によく似て、美しく、聡明なご様子です。
院はこの子を遺して世を去らねばならないと思うと口惜しく、せめて成人する姿を見届けたかったものよ、とまた涙を流されます。
「春宮、よろしいですか。今上帝はあなたにとって頼れる兄君です。兄弟仲良く支えあって国を治めていくのですよ。そして今一人の兄、源氏の大将が必ずあなたをお守りするでしょう。父とも慕って何でも源氏に相談するのですよ」
傍らでこの言葉を聞いていた藤壺の中宮は、ありがたくも辛いこと、と目頭を押さえました。
春宮はもうこの優しい父院にお会いできなくなるのかと悲しくなり、寂しそうな神妙な面持ちでお言葉に耳を傾けられておりました。
院は最後に最愛の息子・源氏を側に呼び寄せられました。
「帝には決してあなたをないがしろにしないよう頼みましたが、私が亡くなればあなたにとって辛い世の中が訪れることだろう」
「父上、気弱なことをおっしゃらないでください」
源氏は心から慈しんでくれた父が今は別れと言葉を遺されるのが悲しくて、父院の手を握り締めました。
その御手はひんやりとしていて力がありません。
父院と穏やかに暮らした日々が思い出されて涙が止まらなくなります。
「一国の宰相たるあなたがそのように泣いてばかりではいけませんよ。私はいつでもあなたを見守っていますからね。くれぐれもお忘れなきように。兄弟達と手を取り合ってこの国をよい国に導いて下さい」
いつまでも父院のお側にいたいと願いますが、そういうわけにもいきません。
唯一の肉親である父までもがこの世を去ろうかと思われると涙で視界が塞がれて、この世が暗く思えてならず、途方もない寂寥感に苛まれる源氏の君なのでした。

弘徽殿大后は院が内裏を出られてからも、皇太后として内裏に残られておりました。
藤壺の中宮が憎らしく、院にはお会いしたいという御心はあっても意地をはられてご機嫌を伺うようなこともありませんでした。
しかしながらさすがにご危篤と聞くと心穏やかではおられず、お見舞いに伺うかどうしようかと思い悩んでおられました。
源氏に対しても、中宮に対しても、この大后の憎しみの根底には必ず院への愛があるわけで、院がご危篤となれば自尊心もかなぐり捨てて駆け付けたいという女心があるのです。
しかし運命とは残酷なもの。
大后が悩まれている間に桐壺院はそれほどの苦しみもなく身罷ってしまわれました。
せめて一目でもお会いすればよかった、と大后は御胸を痛められたことでしょう。

院の崩御で世の中は嘆きに満ち、暗く沈みました。
譲位されたとはいえ、院がご健在の時は厳然と力をお示しなっておられたので、ご政道に不安など感じることもなかったのですが、帝はまだお若いうえに外祖父の右大臣は権勢に胡坐をかいて傲慢でいらっしゃる。
弘徽殿大后は気性が荒々しくていらっしゃるので、一体どのような世の中になるものかと人々は不安になるのです。
藤壺の中宮も弘徽殿大后が勝手をできる世の中が末恐ろしく、春宮の為にも目立つ行動は控えねばと桐壺院を出て御実家の三条邸へ戻られる意向を示されました。

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