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紫がたり 令和源氏物語 第百三十五話 澪標(三)

 澪標(三)

帝が変わられたので、再び賀茂の斎院と伊勢の斎宮が代替わりすることになります。
賀茂の斎院には朝顔の姫が、伊勢の斎宮には六条御息所の姫がつかれておられましたが、朝顔の姫は任期途中からでしたのでそのままに、御息所の姫はその任を解かれ、帰京されることになりました。
どちらも気になって仕方のない源氏の君ですが、朝顔の姫には手紙をさしあげるも、内大臣となった今ではそうそう気楽に出歩ける身分ではありませんので、御息所のところへは足を向けることができないでおりました。
それどころか宮中と二条邸との往復で仕事に忙殺される日々を強いられています。
あちこちに気になる女人たちがおりますもので、いっそその方々を邸に迎えてお世話しようなどと考えを巡らせているのでした。
もちろんその中には花散里の姫君も数えられていて、京へ戻ってもなかなか訪れることのできないことを心の中で詫びておりました。

今一人大事な女君の消息を記しておきましょう。
源氏の子を身籠った明石の君は三月十六日に無事に女児を出産しておりました。
密かに宿曜道に精通する人に占わせていた源氏はまさに運命の姫の誕生を喜びました。
宿曜の人によると、源氏には三人の子が生まれるということでした。
帝と后となる運命の御子があり、今一人の子は太政大臣となって人臣の最高位を極められるということです。
そして生まれ出るそれぞれの腹の中でもっとも身分の低い女君にこそ姫が生まれるであろうという見立てでした。
源氏は冷泉帝と夕霧ともしや明石の上には姫が生まれるのではないかと推測しておりました。
尊い皇后となられる姫がまさに誕生したという知らせが入ったのです。

この姫をおろそかにはできまい、と誕生の祝いと共にかつて宮中にて仕えていた女官を乳母(めのと)として明石に向かわせました。
この女官は桐壺院の元でお仕えしておりましたが、見目麗しく、洗練されたなかにも教養の高さが見てとれる優れた人でした。
しかしながら人柄と生活水準が比例しているわけではありません。
せっかく子に恵まれる縁を得たわけですが、夫は浮気な殿方で他にも通う処の多くある人でした。
頼りの両親とも死に別れ、子供を抱えて頼りなく暮らしている、と人伝てに聞いた源氏は、その女官に乳母を任せようと決めました。
宮中の女官として都を出たことのない女性に明石の辺境の地へ赴くことを決心させるのは難しい問題です。
源氏自ら彼女を訪ねて口説きました。
「明石というのはね、まるで田舎のように人は言うものだが、風光明媚で人はみなおおらかな土地柄なのだよ。生まれた姫をこそ大切にかしずいて立派にしようという心づもりもあるものだから、あなたに行ってほしいのだ」
そのように天下の内大臣に懇願されれば、気持ちも大きく動こうというもの。
生活の困窮という現実を目の前にして、彼女は首を縦に振るしかないのでした。
それにしてもなかなかの美女である。

源氏:かねてより隔てぬなかとならはねど
       別れは惜しきものにぞありける
(あなたとはずっと前からの仲というわけではないけれど、手放すのが惜しくなり
ました。あなたと共に明石へ参ろうか)

乳母:うちつけの別れを惜しむかごとにて
         思はん方に慕ひやはせぬ
(私との別れが惜しいというのは口実で、お慕いしている明石の上に会いに行きたい、というのが本音でございましょう)

色めいた源氏の歌にぴしゃりと機転の利いた歌を返す賢しさに、源氏は彼女ならば間違いなく姫を立派に養育してくれると確信したのでした。

遠く離れた明石の浦では源氏の心尽くしの祝いの品や願いをこめた守り刀をありがたく喜びましたが、何より当世風の教養高い乳母の存在が源氏の姫を想う心の表れであると感嘆しておりました。
当の乳母も最初はそんな片田舎など、と蔑んでいましたが、夫人である明石の上の気品ある様子、また源氏が大切にかしずこうという姫を拝顔して心をこめてお仕えしようという気持ちになりました。
なにしろその幼い姫の美しさときたら、高貴な皇女たちをお世話してきた身でも、これほど輝くばかりの姫にはお会いしたことはないのです。
明石の君もこの若く賢い乳母をたいそう気に入り、源氏の配慮を感謝せずにはいられないのでした。

 ひとりしてなづるは袖の程なきに
        おほふばかりの蔭をしぞ待つ
(この撫子をわたくし一人で育てるのは容易なことではありません。あなたの庇護があってこそなのです。どうかお忘れになりませんように)

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