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紫がたり 令和源氏物語 第百三十六話 澪標(四)

 澪標(四)

紫の上はここのところたびたび空を眺めるようになっておりました。
そして、そんな折には祖母の尼君が愛用していた数珠を人知れず握りしめているのです。
形のよい額をあらわに、美しい横顔には憂いが含まれています。
源氏が須磨へ隠棲した時からの習慣のように、紫の上はふと空を見上げることが多くなっておりました。
初めは須磨の源氏を想って、きっとこの同じ空を眺めているに違いないという思慕の情からでした。
それが、物思いが嵩じると心を解放するように自然と目が空の彼方を臨もうとしてしまうのです。
今源氏は邸を留守にしております。
つい先日明石の元に姫が誕生したと聞かされました。
源氏自ら乳母となる女人を選んで遣わすようで、そのために外出しているのです。

その話が出たのは庭先の花を愛でている時のことでした。
再び源氏とこの庭を眺められる喜びに浸っているところをふいに何の気ない様子で打ち明けられて、紫の上は胸を抉られたような気持ちになりました。
「外から漏れ伝わったのでは情けないので、私の真心と思って聞いてください」
「なんでございましょう?」
「いや、明石の人に子供が生まれたのですよ。女の子なので甲斐もないと諦めましたが、私の子供なので放っておくわけにもいかないものでね」
「それはおめでとうございます」
そうおくびにも出さずに取り繕いましたが、何か大切なものを踏みにじられたようで、深く傷つきました。
「あなたに子ができたらどんなにか嬉しいでしょうが、思わぬところに子ができるというのはどうにもなりませんね」
「そのような仰り方はやめてくださいまし。子は授かりものですから、大切になさってくださいませ」
「あなたは気立てが優しいので、きっとそう言ってくれると信じていたよ」
そうして抱き寄せられると、紫の上は恨み言のひとつも言えなくなるのです。
「どのような物を贈ったらよいか、一緒に考えてくれまいか。あなたは趣味が良いからきっと立派に整うに違いない」
「もちろんですわ」
そうして微笑む紫の上の心情を誰が察してくれようか。
明石の上とはその時限りの契りと思っていたものの、まさか子まで成すとは、きっと二人の宿縁は深いものに違いありません。
紫の上の心にはまた大きな不安の波が押し寄せてきているのでした。
ちらと明石の君の手跡を見ても、たいした教養のある人だとわかります。
そして筝の琴や琵琶などの達人と聞かされて、どうして源氏の前で琴など弾けましょうか。
源氏はまるで紫の上のことを嫉妬深い女のように恨みますが、女である限り愛する方に他に向いてほしくないという気持ちは誰でも持ちあわせているものです。
他の女君たちよりも明石の上に対して特に気を揉んでしまうのは、明石の上が紫の上が源氏の妻となった後に娶られた女君だからでしょうか。
自分が妻になる前の女人たちとのつながりは致し方ないと思うものの、明石の上に対しては自身に足りないところがあったからなのでは、と感じられてならないのです。
何より須磨、明石と別たれたあの折に、心ばかりはひとつ、共にあると信じていたものを、源氏は別の女性と他の夢をみていた、というのは紫の上にとっては裏切り以外の何ものでもないのでした。
このように煩わされるのであればいっそ御仏にお仕えして、懊悩から解放されたいとさえ思われるのです。
紫の上は素直で清廉な女人です。
自分の中に芽生えたわだかまりが醜く思えて、消え入りたいほどに恥ずかしく感じるのです。
子もあることですし、いずれ明石の上が邸に迎えられるようなことを見るまでもなく尼になってしまいたいと願うのです。
そうしてまた水晶の数珠をお守りのように握りしめるのでした。

紫の上のそんな心も知らず、源氏は女君たちを集める為に隣に広大な土地を求め、二条邸・東院の造営を推し進めておりました。
女人達にはそれぞれ素晴らしいところがあり、誰もみな捨てがたい優れた性質を持っています。
その大切な人たちを集めて世話をすることができますし、子供たちをこの邸で育てるとなれば身分ある人には後見を頼むこともできるからです。
源氏の今の財力ならば何ら難しいことではありません。

紫の上は側近くに控える少将の君に言う風でもなく、呟きました。
「殿は大きな邸を造営して女人達を集めるのだそうよ」
「後宮のようなものなのでしょうか。内大臣とはそれほどに偉いのでしょうかねぇ。まるで帝にでもなったようですわね。殿方には面倒無いでしょうけど、暮らしている女たちの気持ちはお構いなしですのね」
少将の君はかつての元気者、お転婆犬君です。その気性は大人になっても変わりがありません。
「女とは辛い生き物だとつくづく思い知らされるわ。殿方に縋るしか生きる術が無いのだもの。新しい邸がわたくしには飾りたてられた檻のようにしか思えないわ」
女主人の悲しい呟きに少将の君は慰めることもできませんでした。

次のお話はこちら・・・


オシリスとダイヤ
愛猫オシリス


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