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紫がたり 令和源氏物語 第二百八十五話 真木柱(十六)

 真木柱(十六)
 
玉鬘姫は物も食べることができず、寝付いて病人のようになってしまいました。
如月の中旬、少しずつ空気が春の温もりを孕むようになった頃、六条院から乳母や玉鬘の家司となっていた筑紫大夫、三条の君など、筑紫から共に上ってきた者たちも右大将の邸に移ってきてようやく心が落ち着いてきたようです。
源氏の計らいで右近の君も玉鬘付きの女房としてやってきてくれました。
辛い時にずっと支えになってくれた者たちとの再会で心が平穏に保たれ、姫はようやく食事も喉を通るようになりました。
 
右近の君は源氏から預かってきた手紙を姫に差し出しました。
 
かきたれてのどけき頃の春雨に
     ふるさと人をいかにしのぶや
(春の長雨が続くこの頃はどこか心寂しい風情です。私はあなたが恋しくてなりませんが、あなたは里人=源氏を思い出すことはあるのでしょうか?)
 
実は右近の君はそれとなく源氏の玉鬘姫への懸想を察していたもので、この消息を姫に見せるかどうか躊躇われたのですが、今の打ちひしがれている姫にせめてもの慰めになればと決断しました。
「懐かしいお手蹟だわ」
あの輝かしいばかりの六条院での日々が思い返されます。
涙を浮かべ、しみじみと噛みしめるようになかなか手紙から目を離さない玉鬘姫が労しい。
どうしてこの姫ばかりが過酷な運命に翻弄されるのか。
右近の君は改めてどのようなことがあっても姫のお側で支えて行こうと心を決めました。
それが亡き夕顔さまにも報いることなのだ、と思われるのです。
「右近、お義父さまはどのように過ごしていらっしゃるの?」
「それは心穏やかではございませんでしょうね。きっとこの雨空のように晴れ晴れとした心持ちではないでしょう」
右近は含みをもたせてそれ以上は何も言いません。
「姫、お返事を書かれますか?」
「そうね、そうするわ」
右近の君は薄ぼんやりと開いた梅を思わせる上質な料紙を取り出すと、墨を磨り始めました。
 
ながめする軒の雫に袖ぬれて
    うたかた人をしのばざらめや
(長雨の降る軒下で私の袖は涙の雫で濡れております。あなたを思い出さぬことなどありましょうか)
 
源氏は姫の手紙に涙がこみあげてくるのをじっと堪えるのでした。
 
やがて弥生月になり、春の薫りが益々高まると庭の山吹の黄色が眩しく、かの姫をそれとなぞらえたことが思い起こされる。
源氏は始終夏の御殿の西の対に渡っては、今はもういない姫の面影を探しているのです。
 
思うとも恋ふとも言わじくちなしの
      色に衣をそめてこそ着め
(古歌:あなたを想っている、恋うているということは私たちの仲では憚れるので、せめて口無し=梔子の色に染めた衣を纏い、じっと黙っていよう)
 
思はずに井手の中道へだつとも
     いはでぞ戀ふる山吹の花
(私たちの仲は知られてはならないものだから、梔子色の衣も必要あるまい。じっと心の中であなたのことを想っています)
 
このように逃避しては呆ける源氏の君を紫の上は冷ややかに見つめるのでした。

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