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令和源氏物語 宇治の恋華 第九十一話 

 第九十一話  迷想(一)
 
薫が宇治を後にすると山荘は光を失ったように静まり返り、寂しい年の瀬が訪れました。
若い女房などは新しい春の訪れと共に京へ移るという報せに明るい表情を見せますが、当の中君の顔色は優れません。
愛する近しい者たちとの死別はその心に大きな変化をもたらしました。
夫を持ち女人としての感性が磨かれた中君はそれと同時に殿方、世間というものを知りました。
今は姉の気持ちもよくわかり、日々物思いは尽きません。
もしも姉が生きて共に京へ迎えられるのであれば、無邪気に幸運と喜べたであろう。
新たに芽生えた感情に気付くことも無かったであろう、と深い溜息を吐く中君なのです。
そんな中君のしっとりと物思う風情を老女房たちは大君のようであると亡き人を懐かしみます。
大君、中君と二人でいらした時にはそれほど似てもいない姉妹と思うていたものの、中君がふと見せる表情や仕草がやはり不思議と亡き姫を思い起こさせるのです。
弁の御許は今さらながら大君の願い通りに中君と薫君が結婚しておればこの春の様子も違っていたであろうかと己の行いを悔いておりました。
春に浮かれる邸の中でただ二人、冷静に行く末を見極めようと思慮する者同士で波長が合ったのか。あるいはただただその優しい気性から沈む老女の様子が気にかかったのか、中君は度々弁を側に呼び寄せて語らうようになっておりました。
「少し空気も温んで参りましたわねぇ、中君さま」
「ええ。わたくしの心は悲しみに塞がれたままだけれど、季節は移り変わってゆくのね」
そうして宇治川を臨む中君の横顔は艶やかで額髪も美しいのです。
女盛りの姫が少し憂いて俯く姿は匂うばかり。
弁の御許は純心に美しいと見惚れております。
そこへ山の阿闍梨から毎年恒例の新春の便りが届けられました。
蕨や土筆が竹かごに風流に盛られて歌が添えられてあります。
 
 君にとてあまたの春をつみしかば
        常を忘れぬ初蕨なり
(父宮さまも姉姫さまも世を去りましたが、あなたさまがこちらにおられる限りは差し上げようと、縁<えにし>を思い起こさせる初蕨でありますよ)
 
簡素な短冊にしたためられた歌を老女から受け取ると中君はその歌を噛みしめるように詠じました。
俗世とは縁を切り歌などは平素お詠みにならない御仁ですので、雅の何たるかもなく、思案して一生懸命吟じたであろうものは飾り気もなく素直であります。
阿闍梨のお気持ちがありがたくて中君はふと漏らしました。
「雅を気取った歌よりはこうした素直なものこそ心情がよく伝わるものだわねぇ」
それは匂宮の文をあてこすったものではなく、心の底からの言葉であるのを見てとり、老女はおや、と首を傾けました。
 
 
この春はたれかに見せむ亡き人の
     かたみにつめる峰の早蕨
(前の春は姉と二人で喜んだ早蕨ですが、今年は誰に見せればよいのでしょう。この父宮の形見とも思われる阿闍梨さまからの早蕨を。ただ一人残されたわたくしにはわかち合う者がおりませぬ)
 
手つきも優雅に伸びやかにしたためた中君は阿闍梨への感謝の品々などを持たせて僧侶たちを送り出しました。
弁の御許は先刻中君が漏らした言葉を噛みしめて問いました。
「中君さまは匂宮さまを信じられぬのですか?」
ふっと寂しげに笑う中君にその複雑な胸の裡を窺う弁の御許なのです。
「わたくしは最期にあれほど愛に満ち足りた笑みを浮かべられた姉上が羨ましいのです。薫さまのような御方というのは稀なのですね」
さもあらん、と老女は大君が最後にこぼした涙を思い返しました。
「こればかりは宿縁でございますが、大君さまが願ったように中君さまと薫さまがご結婚なすっておれば違った今があったでしょうか」
「それは無いでしょう。薫さまが心変わりされるなんてありえないもの」
さらりと否定して中君は遠くを見つめました。
その愁いを含むせつない表情は薫君への慕情の表れか。
まこと世は思うようにならぬ、と弁の御許は深い溜息を吐きました。
「正直わたくしはこの宇治を離れたくはありません。でも夫しか頼るべくもない身ですもの。その意向には逆らえないわ。女人というものは辛く哀しい生き物ね」
「いっそ今からでも薫さまとご結婚できればよろしいですのに」
夜離れの続く夫と別れて新しい夫を迎えるということは無いことではありません。
外聞はよろしくありませんが、生活の為にはやむなし、といったケースもあったのです。
ましてやここは霧深い宇治の里、口さがなく噂されようともその声は届かないのです。
しかしながら中君はありえないことと顔を歪めて笑いました。
「薫さまがわたくしを想ってくださったとしても、わたくしはその愛を信じられません。お姉さまへの想いを前にしては形代か同情からか、と疑ってしまうもの。それは惨めだわ」
「そうでございますねぇ」
老女はせつなそうに落ち窪んだ目をしばたかせました。
「お姉さまは薫さまの愛をすべてあの世へ持って逝かれてしまったのですもの。これから先も薫さまの心からお姉さまの面影が消えることはないでしょう。わたくしはこの想いを宇治へ封じて都へ向かうしかないのだわ」
凛とした聡明さは成熟した女性のしなやかさへと変わっているのでした。
「それではわたくしは守り人として髪を削ぎ、この宇治で生涯を終えることと致します」
「そう、寂しくなるわね。徒然に語らうことのできたあなたと別れなければならないなんて」
「中君さまのお幸せをこの地から願っております」
前に踏み出すことを決断した中君ですが、それにはまた辛い別れも付きまとうものであるよ、と明るい未来ばかりを思い描くことはできないでいるのでした。

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