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令和源氏物語 宇治の恋華 第七十話

 第七十話  うしなった愛(三)
 
「ああ、秋夜は長いというがそれでもあなたと一緒だと短く感じるものよ。もう夜明けとは」
匂宮は心底恨めしそうに朝日が山間を照らすのを眺めました。
「今宵も必ず参りましょう」
「お待ちしておりますわ」
新妻がはにかみながら頬を染めるのが愛しくて後ろ髪を引かれてなかなか腰をあげることができない匂宮なのです。
しかし隋人の咳払いに急かされてやむなく宇治を発ちました。
 
匂宮が中君に通い、この日で三日目。
平安時代の婚姻はこうした男性が女性の元を訪れる通い婚でありますが、三日続けて通うことで成婚ということになります。
この三日目の宵に夫婦は固めの誓いとして『三日夜の餅』というものをそろって食べる習わしがありました。
お餅は現在でもお正月に食べられるものですが、御祝い事には欠かせないもの。
お餅自体にも霊力があるとされ、成婚となる夜に夫婦は生涯を共にするという誓いをこめてこれを食べたのです。
大君はもちろん未婚ですのでこうした習わしを知りませんでしたが、女房たちに教わって邸を浄めさせ、餅をつかせる支度をさせました。
陽が高く昇る頃には後見らしく薫中納言からも三日夜を言祝ぐ手紙と数々の贈り物が届けられました。
桐の衣櫃には中君によく似合う艶やかな装束が納められており、大君は喜んでそれを妹の元へ運ばせました。
「中君、薫さまから贈り物が届いたわ」
「まぁ、なんて美しい絹織物なのでしょう」
中君はその滑らかな肌触りにうっとりと喜びの声をあげました。
「今宵はこの衣装を着けて匂宮さまをお迎えなさい。晴れて成婚の夜ということになるのよ」
大君は微笑みながら涙をこぼしました。
「ごめんなさいね。でもこれは嬉しい涙なのよ。お父さまが生きていらしたらあなたが宮さまのような立派な御方と結婚したことを喜ばれたに違いないと思って。この美しい衣を纏うあなたをお父さまにお見せしたかったわ」
「きっと見守っていてくださっているわ。お姉さま、いつでもわたくしのことを一番に考えてくださってありがとう」
「結婚おめでとう。末永く匂宮さまと幸せになるのよ」
「はい、わたくしは一足先に幸せになります。お姉さまもどうか御心を解き放ってご自分の幸せをお考えになってくださいまし」
中君は本当に幸せそうな笑みを浮かべて姉を優しく励ましました。
その顔はつややかに輝いて大君には眩しく感じられます。
それと共に大事にしていた小鳥が手元を飛び立ってしまったような一抹の寂しさも覚えるのです。
 
わたくしの幸せとは何処にあるのであろう?
 
大君の脳裏にはぼんやりと薫君の立派な御姿が甦ります。
いつしか大君は妹の満ち足りた笑顔に羨望の念を寄せているのでした。
 
 
匂宮は三日目の宵の為に薫物を念入りにさせておりましたが、母君の明石の中宮より参内せよ、との使者が遣わされたので渋々出かけることとなりました。
匂宮は気楽な二条院での暮らしを気に入っているのですが、帝や中宮は密かに匂宮を次の東宮にと考えておられるので、放任もほどほどにと時折参内を促すのです。
しかしよりにもよってこの日とは、と匂宮は頭を抱えます。
参内してもお小言を賜ることはわかりきっておりますが、従わなければさらによいことはありませんでしょう。
 
案の定中宮は厳しい顔つきで息子を迎えました。
「三の宮おいでになりましたね。近くへ寄りなさい」
「はい、母上」
観念したようにうつむく宮はいつもの色男然ではなく、悪戯を咎められた子供のように委縮して、やはり母君に頭が上がらぬのはたとい中宮と皇子であっても世の親子とはなんら変わらないものなのです。
中宮は匂宮がいつまでも正式な妻を持たずに忍び歩いているという話を聞いて近頃兄である夕霧の大臣が仄めかしている六の姫との結婚を勧めようと考えておられます。
「ずいぶんと久しぶりにお顔を見たようだけれど元気そうで何よりです」
「母上こそお元気そうで、変わらずにお美しくていらっしゃる」
「お世辞はよろしい。それにしてもこのような挨拶を交わすほど参内されぬとは。皇子の自覚がないのであれば里住みを禁じるしかありませぬ」
「会った途端にお小言をくださるとは身に覚えのないことです」
「とぼけても無駄ですよ。あなたが夜な夜などこぞへ微行しているというのは噂になっているのですもの」
「いったい誰がそんな根も葉もないつまらぬ噂を流すのでしょう」
「事実がどうであれ、皇子というものはそれに相応しく身を律しなければなりません。噂がたつということがあなたの不徳なのですよ。その年にもなって正式な妻も娶らずにふらふらしているからこのようなことになるのです」
「自重致しますよ」
匂宮は大人しく内裏の自分の舎へ引き下がりました。
とうとう生涯を共にするべく姫を見つけたというのに、その大事な三日夜の宵というのにどうやら行けそうにはありません。
意気消沈した宮はせめて心をこめて向かえぬ由を手紙にしたため、宇治へ遣いを出したところに薫がやって来ました。
薫は匂宮が中宮に呼び出されたことなどを聞きつけて急いで参内したのです。
「君、今日は三日夜ではないか。えらいことになったなぁ」
「そうなのだ。母上は今日は特に当たりがきつくてな。さすがに宇治へは行かれぬよ」
薫は本当に残念そうに消沈している宮を不憫に思いました。
たしかにこれまでの行いが仇となって返ってきたのは自業自得なのですが、もしかしたら真の運命を見つけたのかもしれぬこの人を友として宇治へ行かせてあげたいと思うのです。
「今台盤所で君が搾られているという噂を聞いてきたのだよ。中宮さまはどうやら私にもお小言をくださるつもりらしい」
「薫にまで飛び火したか」
「まぁ、実際宇治の姫を君に紹介したのは私だからねぇ」
「なんともこの身分が恨めしいよ。私は帝などにはなりたくはないのだからなぁ。窮屈この上ないではないか」
薫はやはり宮を宇治へ行かせてあげようと決意しました。
「君。宇治へ行きたまえよ」
「しかしここで抜け出したら母上は黙っておらんぞ」
「宇治へ行かなければあちらに恨まれるだろうよ。どちらにしても恨みを買うのであれば心のままに従ったほうが後悔もなかろう。中宮の機嫌は私がとっておくからその隙に君は馬で行きたまえ」
薫のその一言で匂宮の心は決まりました。
「薫、頼んだぞ」
「うむ、咎めは共に受けようぞ」
そうして薫は中宮の御前に伺候し、匂宮は闇にまぎれるようにして宇治へ発ったのです。

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