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紫がたり 令和源氏物語 第三百七十二話 柏木(二)

 柏木(二)
 
柏木の歌はこのようにありました。
その手跡は弱々しくも美しいのがなんとも哀れに感じられます。
 
いまはとて燃えん煙もむすぼほれ
     絶えぬ思ひのなほや残らん
(今は限りと私が燃えるその火葬の煙も絡み合って解けないほどに御身にまつわりついてその想いを遺してゆくことでしょう)
 
小侍従の訴えで宮はようやく返事を書かれ、闇に紛れるようにして柏木の元へ走ったのでした。
小侍従は泣いておりました。
想い想われての愛を貫くのであれば死出の旅路も心安いものであろうに、この恋には救いがないではないか、そう思うと涙が溢れてくるのです。
小侍従は宮の返歌を柏木はなんと思うのかと考えると胸が痛むのでした。
 
致仕太政大臣の邸は篝火が赤々と焚かれ、護摩の煙がもうもうとたち込める中で陀羅尼を唱える野太い声が邸を揺るがすように響いております。
小侍従はその異様な様子にたじろぎました。
柏木も賤しい山伏までもが元大臣の邸を歩き回っているのを情けなく感じておりました。
父君はどのような力にも縋りたいと山奥にて荒行する験者までも呼び寄せて祈祷させているのです。
柏木はあまりのやかましさに耐えられぬ、と休む旨を伝えさせ小侍従を待ちました。
小侍従は昨夜会ったよりも柏木がさらにやつれているようで、手にした文を渡そうかどうかと躊躇われます。
この手紙を見てそのまま息絶えられたならばどうしようかという惧れがあるのです。
「小侍従よ、陰陽師に言わせると私には女の物の怪が憑いているそうだよ。それが害をなしてこの身は蝕まれているそうな。誰も私の罪など知りようもなく、物の怪などと笑わせる話ではないか。むしろその女の物の怪というのが宮の恋心によるものであれば如何ほど嬉しいことか」
自嘲の笑みを浮かべる柏木に小侍従は何も言うことが出来ずにただ手紙を握りしめております。
柏木には宮の返歌が自分の望んだような愛情溢れたものでないことを小侍従の顔色から察しました。
「小侍従、宮の御返事を見せておくれ」
小侍従は諦めて手紙を差し出しました。
 
たちそひて消えやしなまし憂きことを
        思い乱るる煙くらべに
(あなたが火葬される煙と共にこの身も死んでしまいそうです。それほどに思い悩んでいるわたくしの心をご存知ですか?あなたの思い悩むのとどちらが重いものか、その煙で比べてみましょうか)
 
柏木は口の端にうっすらと笑みを浮かべました。
それはあまりの幼い詠みぶりを嘲笑ったものか、このような宮に想いを懸けた己を嘲笑ったものか。
「この『煙くらべ』という言葉を思い出として、私はあの世に旅だって逝くとしよう」
そうして笑う柏木の心情を推し量ることは小侍従にはできませんでした。
 
行くへなき空の煙となりぬとも
     思ふあたりを立ちは離れじ
(私がどこへともない空へ旅立つ煙となっても、恋しいあなたの傍を離れないでしょう)
 
「最後にこの歌だけを宮にお伝えしておくれ。今までありがとう」
柏木はそれだけ言うと死の床へと戻ってゆきました。
その後ろ姿が物寂しく、小侍従には本当にこれが最後なのだと自ずと悟られ、涙が流れるのを止められないのでした。

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