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令和源氏物語 宇治の恋華 第十七話

 第十七話 橋姫(五)
 
薫君は『俗聖』の噂を聞いてからは、そのように俗世にありながら聖と呼ばれるような御方はいったいどのような心持ちで世を過ごしておられるのだろう、願わくば弟子にしていただいて己も修行を積みたいものだ、と常々考えるようになっておりました。
そんな矢先に『山の阿闍梨』が冷泉院に参上する時がありました。
阿闍梨と冷泉院とは古くからの付き合いでやはり経文の義理などを教授していただいたことから今でも交流があるのです。
冷泉院がまだ在位であった頃、己が出生の秘密に苦しみ不孝の罪に苛まれて仏罰を畏れた折、御仏に身を委ねてしまいたいと悩まれました。阿闍梨は当時内裏にて務めを果たしておられましたので、御仏の法と慈悲とを若い帝に説いて差し上げたのです。
奇しくも薫君の懊悩も冷泉院と同じ境涯から生じたもので、互いにそれと知ることはありませんが、御仏に寄せる心と真摯な姿勢は誰よりも似通っているのです。
薫は阿闍梨が冷泉院を訪れるというその日に院に是非にと共にお会いすることを願いました。
薫君は阿闍梨とは初めての対面でしたが、伸びた背筋に勤行痩せした面が神々しく、一目で徳の高い御方であるとわかりました。
御仏の教えなどをとつとつと語るうちにも、八の宮の造詣の深さなどを引き合いに出されたもので、薫君もその御方のことばかりを聞こうとするのです。
「阿闍梨さま、宮さまは『俗聖』と呼ばれるほど、俗世にありながら修行に勤しみ徳の高いご様子と伺いましたが、まことですか?」
「それはもう。私など恥ずかしくなるばかりにございますよ。中将の君は宮さまに関心がおありですかな?」
「はい。私も宮さまのように徳を積んで精進したいと思っております。できれば弟子入りしたいと真剣に考えております」
そのひたむきな眼差しを目の当りにした阿闍梨はおや、と訝しみました。
このように若く美しい公達が戯れでもなく真剣に仏道に関心を持っておられるとはさても奇特なことであるよ、と心に懸かったのです。
それは若かりし日に苦悩しておられた冷泉帝の姿とそっくり重なるように思われたのでした。
 
阿闍梨と薫のやりとりを聞いていた冷泉院は遠い昔に思いを馳せておりました。
冷泉院は桐壺院の第十皇子、すなわち八の宮は母違いの兄であるのでした。
兄宮は幼い頃に母君を亡くしておられたので後宮でも目立った存在ではなく、かたや弟宮でも春宮とあらば尊き御方、宮中行事や御賀の時以外には顔を合わせることもありませんでした。
兄宮はいつでも控えめで父院の前で音曲を披露される時はたいそう嬉しそうに笑んでいられた、穏やかな御方であった。
その奏でる音色は天を震わせるほどの妙なるものであったよ、と懐かしく思い返されます。
政争によって立場が悪くなられ、まるで世に隠れるように身を引いた兄宮は宇治にてそのようにお暮らしか。
私こそ相応しくもない帝位にあったのは、亡き母・女院と源氏の院があってのものよ。
私自身の力ではない。
どうしてそんな辛いお立場の兄宮を今まで放っておいたものか。
冷泉院は後ろめたい気持ちで阿闍梨に尋ねました。
「兄宮のご本懐は出家されることですか?」
「はい。しかし二人の姫君に思いを残しては仏道にも触りがあるといまだ叶わぬご様子です」
「そうですか、お気の毒に。もしも兄宮が姫君たちを誰かに託すお気持ちがおありならば私が引き受けようと思います。阿闍梨よ、兄宮にお話しくださいませぬか。過去のことはともかく、私達は兄弟なのです。これまでなんの手も差し伸べなかった己の至らなさが口惜しいのです」
「院の思し召しは必ずお伝え致しましょう」
冷泉院は硯を引き寄せ、さらさらと歌をしたためました。
「阿闍梨、これを兄宮さまへ」
阿闍梨は恭しく手紙を受け取ると、深く頭を垂れて御前を辞しました。
 
そんな阿闍梨を薫君は八の宮にお会いしたい一心で引きとめました。
「阿闍梨さま、私は本当に八の宮さまに教えを乞いたいと思うのです。宮さまにはお手紙を差し上げたいのですが、その前にどうか私の志を阿闍梨さまから伝えてはいただけませんでしょうか」
「なにお安いご用ですとも。御仏の教えを学びたいという御方の為ならばお役にたちとうございます」
「ありがとうございます」
そうして頭を垂れる薫君から立ち上る芳しい香りを阿闍梨は噂通りの尊さであるよ、と感嘆するのでした。
宇治に戻られた阿闍梨はさっそく八の宮の元へ伺候し、冷泉院のお文を差し上げました。
時節柄の春先を思わせる薄紅の紙に嗜み深い美しい手跡。
焚き染めてある香はまさに京の香りで、宮は懐かしさに目を潤ませました。
 
 世を厭ふ心は山にかよへども
     八重たつ雲を君や隔つる
(私も退位して後は世を厭うようになった者でございます。心ばかりは宇治へ向かうのですが、あなたにお会いできないのは雲が幾重にも立ちふさがっているからでしょうか)
 
「尊い院が私をこのように気に懸けてくださるなど畏れ多いことでございます」
院は世を平けく総べられて身を引かれた賢帝です。
敵対したこの身を赦すというのか、と八の宮は過去の己の有様に恥じ入りました。
院の御志をありがたく思いましたが、やはり姫たちにも心が残り、仏道に邁進できない心持ちなのを素直に詠んで返されました。
 
 跡絶えて心すむとはなけれども
    世を宇治山に宿をこそかれ
(世と隔絶するように出家という心持ちで宇治に住まいするわけではありませんが、この世を憂い、情けなく仮の住いとしているのですよ)
 
使者からこの返歌を受け取った冷泉院は、時代の荒波に揉まれて散った兄宮を心から不憫に思うのでした。

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