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令和源氏物語 宇治の恋華 第二十六話

 第二十六話 橋姫(十四)
 
京から車が迎えにやってきて、それを潮に薫が座を立つと、八の宮が籠られておられる山寺の鐘の音がわびしく山間に響きました。
霧が濃くたちこめて、風情があるというよりはかは、なぜか物寂しい。
「このような山里でのお暮らしはさぞ心細いことでしょうね」
薫は姫君たちに心から同情しておりました。
 
 朝ぼらけ家路も見えず尋ねこし
     槙の尾山は霧りこめてけり
(家路も見えぬほどに霧が深くたちこめております。八の宮さまがお籠りになっておられる山寺のある槙の尾の山にも宮さまの御姿が見えぬほどに霧が覆っていることでしょう。わびしさがます山里でございますね)
 
端正ながらきりりと引き締まった精悍な横顔は心なしか愁いを帯びて、その姿がまた女人にはたまらなく魅力的なのです。
女房たちは返事を返そうにも言葉が出ず、弁の御許も感極まって涙するばかりなもので、大君がほのかに返しました。
 
 雲のゐる峰のかけぢを秋霧の
   いとど隔つる頃にもあるかな
(この時節は父宮がおられる山寺を隔てるように霧がたつのが悲しゅうございます)
 
薫は姫君たちを慰めてあげたいと益々この場から離れがたく思うものの、これ以上留まりあらぬ誤解を受けてはならぬと例の宿直の下男がしつらえた西廂の間に移りました。
その部屋からは宇治川が下に臨めるのが珍しく、供人なども京では見られぬ霧の立ち込めた景色を眺めておりました。
「殿、漁夫が舟を漕ぎ出しておりますな。今年は氷魚(ひお)の獲れ高が今ひとつであるらしいですね」
惟成がいつの間にか仕入れてきたこの地の話題ですが、漁夫の騒がしい声と迫るような波音に、これでは八の宮も落ち着いて念仏会をできぬわけであるよ、と思われました。
 
後朝の文というわけではないですが、薫は硯を引き寄せるそこにある紙にさらさらとしたためました。
 
 橋姫の心をくみて高瀬さす
    棹のしずくに袖ぞぬれぬる
(姫君たちのお暮らしを思うと、渡し守が舟を漕ぎ出でてさす棹の雫のように涙がこぼれて、私の袖は濡れてしまいましたよ)
 
大君は詠みぶりが平凡でも早く返すほうがよかろうかと美しい走り書きで風情あるようにしたためました。
 
 さしかへて宇治の河長朝夕の
   しずくや袖を朽たし果つらむ
(渡し守が棹から滴る雫で袖を朽ちさせるように、わたくしの袖もわたくしの涙で朽ち果てる運命なのでしょうか。心細い山里の暮らしなのです)
 
大君の手跡は女らしく、あの詠みぶりと言い、奥ゆかしく立派な姫であると慕わしく思うにつけても心が残るところです。
薫は例の宿直人に脱いだ装束を与え、これからも姫君たちをしっかりと守るよう言い含め、いくばくかの心付けを渡しました。
宿直人はこの君がどうやら姫君たちに並々ならぬ関心をお持ちだと看破するや、ここでの暮らし向きも良くなろうと中将の味方になる決心をしたのでした。
 
車に乗って宇治を後にした薫は、今回の道行きがもたらした多くのことをぼんやりと思い返しておりました。
弁の御許も気になりますが、やはりあの姫君たちを垣間見られたのは思わぬ収穫でした。
まさに「橋姫」と呼ぶに相応しい、宇治の山神の娘であるような方々であったよ、きっと匂宮は羨ましがるに違いない、と口の端にうっすらと笑みを浮かべる薫君なのでした。

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