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令和源氏物語 宇治の恋華 第二十七話

 第二十七話 橋姫(十五)
 
京に帰り、薫はいつもの日常に戻りました。
しかし自分の中に芽生えた仄かな恋心に戸惑いを覚えております。
常日頃から仏門に帰依する願望を持ち続けておりますが、やはり美しい女人を見るとその決意は鈍ってしまうのです。
生真面目な君は己の未熟さに苛まれ、鬱々として、あの老女との邂逅といい、八の宮さまとは出会うべくして、ひいてはあのしっとりとした大君とは出会うべくして縁は紡がれたのではなかろうか、などと心惑うのです。
 
橋姫の歌に返された大君のお文は見事なものでした。
それがまた薫の心に深い感銘を与えたのです。
薫はそれまで恋人は作っても一人には執着せず、深入りしないように努めてきました。否、すべてを曝け出して受け止めうるような女人には出会ってはいなかった、という方が正しいでしょうか。
それがどうにも大君に心惹かれてならないのです。
あのわびしい山里に吹く颪は時にすさまじく荒涼として、響く水音は荒ぶる水神を思わせるほどに烈しいのです。その中にあって豊かな心を保ちつつ、たおやかに美しくある姿が尊く思われてなりません。
妹姫のほうが華やかな美しさはありましたが、明るく可憐でいられるのも姉姫がしっかりと寄り添っておられるからでしょう。
大君とならば、己の欠けたる人生を埋められるのではないか、かの姫こそ出会うべく人であると運命が告げているように感じられるのでした。
 
薫は大君に手紙をしたためました。
それはもちろん八の宮もご覧になられることを見越しての礼儀としてですが、色めかしくはせずに真剣に大君の心に入り込みたいという一心からです。
紙はただ白い簡素なもので、墨付きを濃く薄く、伸びやかに丁寧に書きました。
そして八の宮へは御山から戻られる頃を見計らって阿闍梨や他の僧侶たちへの布施となるよう、絹や綿の反物、法服などを贈って差し上げました。
 
自邸に戻られた八の宮は薫君の心遣いにいたく感謝し、さっそく硯を引き寄せていたところ、下がろうとしていた若い女房から姫君と薫君の対面を聞いたのです。
「宮さま、薫中将さまへのお便りですか?」
「うむ、寺に遣いをよこしてくださったのでな」
「先日お越しになった時に近くで拝見致しましたが、京の貴公子というのはみなさまあの御方のようにお美しいのですか?」
「中将は当代一と言われる貴公子ゆえ、あのような御方は、そうそうはおらぬなぁ」
「大君さまの元にお文が来ておりました」
「そうか」
宮はすぐに大君と中君を呼んで中将の手紙を読みました。
実は密かに懸想文であることを期待していたのです。
ところが真面目な君らしく、これからは御簾の御前に侍ることを許していただきたい、などと堅苦しくしたためてありました。
宮は深い溜息をつきました。
「まったくあの君らしいお文であるよ。やはり他の浮ついた貴公子たちとは違うものだ。このような御方を我が婿と呼べればこれまでの辛い人生も報われようものを」
「お父さま、お返事は如何いたしましょう?」
「大君がお書きなさい。薫君は本当によい青年なのだよ」
それきり宮は口を噤まれてしまいました。
八の宮と薫はどこか似ているところがあるのかもしれません。
互いに相手を思い遣り、強く己の願望を果たそうとはしないのです。

宮と大君から手紙を受け取った薫はこれから発展的なよい関係を築いてゆければいい、と穏やかな心で願うのでした。

☆注釈☆
橋姫とは一般的に鬼女、川の女神として知られています。
よく知られる橋姫伝説は、恋しい男が他の女に心を移し、復讐を誓った彼女は貴船明神から神託を得ました。
その内容は21日間宇治川に身を浸けると鬼になれるというものでした。
神託の通りに鬼女になった橋姫は裏切った男と憎い相手の女を殺した、という恐ろしいお話です。
源氏物語においての橋姫はそのような恐ろしい鬼女ではなく、京から離れた幽谷に穏やかに暮らす美女たち。
その神秘性を強く表現した帖名だと思われます。
神に荒魂と和魂があるように、宇治に隠れるように暮らす橋姫は楽を愛し、自然と共に生きる穏やかな美女たちであった、ということですね。

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