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紫がたり 令和源氏物語 第百三十話 明石(十七)

 明石(十七)

いよいよ明日は帰京という宵のことです。
源氏は明石の姫の元で別れを惜しんでおりました。
「あなたを京に連れて帰りたい。しかし赦されたからと女連れで意気揚々として戻るわけにはいきません。もちろん身重での旅は辛いでしょうし、何より私はあなたを世の好奇の目に晒すのが忍びないんですよ」
源氏の言葉に嘘偽りはありません。
明石の姫は人目も憚らず涙を流しておりました。
「わかっております。いつかはこの日がくるのを覚悟しておりましたもの」
「必ず京に迎えます。母になるのですから気をしっかり持ってくださいね」
「はい」
明石の姫には源氏の言葉だけが頼りなのでした。
「そういえばあなたの自慢の筝の音色をまだ聞いていませんでしたね」
源氏はそう言うと旅を共にしてきた七弦琴を掻き鳴らしました。
惜別の心が滲んだ音色に応えるように明石の姫は筝の琴を爪弾きました。
その音色はこの女人の在り方のように気高く、耳が浄められるような不思議な響きでした。
まるで海の底をたゆたうような調べに、この人はやはり海龍王の后となるべく人だったのかもしれぬ、と君はしみじみと感じ入りました。
「この愛着ある七弦琴をあなたに預けてまいります。この音が狂わぬうちに京へ持参してくださいね」
源氏の優しい言葉に明石の姫はまたはらはらと涙をこぼすのでした。

明石の上:なおざりに頼めおくなる一言を
         つきせぬ音にやかけて忍ばむ
(ものの数にもはいらぬ身分のわたくしにかけてくれるあなたのそのお言葉を形ばかりだと恨むことはいたしませんが、私はこの琴を弾いてはあなたを思い出すことといたしましょう)

源氏:逢ふまでのかたみに契る中の緒の
         調べはことに變らさらなむ
(この琴の中の緒がゆるむ前にお会いしようと私は誓いました。そのように琴の調子が変わらぬようにあなたの心も変わらずにいてほしいのです)

翌朝の海は静かに凪いでおりました。
足掛け三年の流浪生活が終わろうとしています。
あの都を離れた日の想いが甦り、愛しい者達に会いたい気持ちで心が逸りますが、この明石に出来た新しい縁も捨てがたく思われるのが辛いところです。
おそらく京へ戻れば二度とこの地を訪れることはないでしょう。
じっと海を見つめる源氏の側に明石の入道が伺候しました。
「君、そろそろご出立のお時間でございます」
源氏は居住まいを正すと深々と入道に頭を垂れました。
「短い間ではございましたが、お世話になりました」
「なんと畏れ多い。頭をお上げくだされ」
源氏の都への旅支度はすべて入道が整えて立派な土産もたくさん用意してありました。
明石での生活から細やかな心遣いがありがたく、源氏は人として感謝の念を表したのですが、入道は恐縮するばかりです。
「義父上ではありませんか、子が親を敬うのは当たり前のことです」
「そのようにありがたく仰せならば、子を気遣うのが親の務めですので、お気に召さるな」
最後まで義理堅い入道の様子に源氏は微笑みました。
その匂やかな笑みが入道の名残惜しさをさらに駆り立てます。
「ほんに去ってしまわれるのですなぁ」
別れというものは男女でなくとも寂しいものです。
ましてや当代一といわれる高貴な御方であればなおのこと。
「子供も生まれることですし、むしろこちらとは縁が深くなったと私は思っています。私の子供をよろしくお願いいたします」
入道は額付かんばかりに頭を垂れました。
源氏が明石を出立したと聞いた姫は源氏の遺していった衣を抱きしめ、恋しくて涙を流すのでした。

次のお話はこちら・・・

ラボオシリス①


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