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紫がたり 令和源氏物語 第三百四十話 若菜・下(六)

 若菜・下(六)
 
年を重ねると一年が徐々に短く感じられるもので、それは現代の我々であろうと千年昔の平安貴族であろうと変わらぬ感覚でございましょう。
六条の院として世間に敬われ、何不自由なく贅沢な暮らしを営む源氏も日々を過ごしているうちにあっという間に歳月は流れ、御年四十六歳になられました。
冷泉帝は三十二歳。
未だ若くていらっしゃいますが、ここのところ体調が思わしくありません。
冷泉帝はそろそろこの国を次代へ譲る時がきたようだと思召されました。
みなさんは冷泉帝が即位して何年か後に天変があったことを覚えておられるでしょうか。
その折に帝の身を案じられた老僧によって真実の父が源氏であることを明かされたのでした。
それから後の帝の苦悩は記した通りです。
正統な血筋ではないと自らを貶め、その存在意義さえも疑い、実父である源氏に孝行を尽くしたいと源氏への譲位を仄めかされたほどです。
そのような思いを抱きながら、今はただ国を一時預かるばかりとして忠臣の意見を汲んだ正しい政治を行ってきたので、賢帝として平けく世を治めてこられたのです。
その姿勢は長年揺らぐことなく、春宮も立派にご成長されたこの時が国譲りに最良と判断されたのでした。
そうして世に惜しまれながら、在位十八年で御位を下られたのです。
 
世は移り変わる。
新たな帝が立たれ、明石の女御の産んだ一の宮が無事に春宮に冊立されました。
太政大臣も冷泉帝が退かれたのをよい機会と自らも職を辞して気ままな隠居生活を楽しまれるおつもりです。
新しい政治の要には髭黒の左大将が据えられ、右大臣へと上られました。
そして夕霧は大納言になり、左大将となりました。
源氏の院のご一族は晴れがましく益々栄えていくようであるよ、と世間ではもてはやされますが、当の源氏はこの世の変わり目を寂しく感じているのでした。
それは夕霧も明石の女御もかわいい我が子ではありますが、冷泉帝はあれほど恋い慕った藤壺の女院との愛の証なのです。
冷泉帝に子がおられぬことが残念で悔しくてなりませんが、もしやこれが道ならぬ恋に身を堕とした報いであると考えると因果応報というものか、と目に見えぬ大きな力に畏れおののく君であります。
そのような思いを吐露しようにもこのことは未来永劫秘さねばならぬことなので、ただ切なく胸を締め付けられるのでした。
 
世が変わっていくのを紫の上もしみじみと眺めておりました。
三十七歳という年齢を迎えましたが、十ばかりは若いように思われ、女盛りに輝いております。
それでも無常感が彼女を駆り立てるのでしょう。
とうとうかねてからの念願を源氏に切り出しました。
「ねぇ、あなた。お願いがあるのです。聞いて下さる?」
「なんだね、改まって」
紫の上はそれまで願い事などしたこともなかったので、源氏は珍しいと目を瞠りました。
厳密に言うと、紫の上は自分の願いを申し出たことがないのです。
邸内を切り盛りするための願い事、自分以外の者の為の願い事、源氏を思っての願い事などはあったのですが、こう真正面から真摯な瞳で何かをねだられるということは今まで一度もないのでした。
「わたくしは御仏の弟子になって静かに暮らしたいと思います。どうぞ出家をお許しくださいませ」
紫の上はそう言うと深々と頭を垂れました。
源氏はあまりのことで一瞬何も考えられなくなってしまいました。
出家するとは夫婦の縁を切るということなのです。
最愛の人であるこの人が私を捨てる、と言っている。
「私の方こそ年来出家を考えていたのにそれがなかなか決心できないのは何故だと思うのだい?私が世を捨てれば残してゆくあなたが心配だったからではないか。それをあなたが先に私を捨てるというのかね?いけない、それはいけないよ。この話は聞かなかったことにする」
源氏は動揺し、逃げるように御座所を出ていってしまいました。
残された紫の上は、
「もう、わたくしを解き放って・・・」
そう呟くとはたはたと涙をこぼしました。
たったひとつの願いも聞き入れてはもらえない。
男性の所有物であると見做される女人でも、心だけは自由でありたいと誇りを守るために願ったことも叶わぬとは、なんと平安の女性たちの悲しい境遇でしょうか。

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