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写真が進化してもオールドレンズで撮る

1つ前の投稿で「写真のミライ」を考えた際に、コンテンツとしての楽しみ方に重心を置いていた。今回は、撮る行為そのものの楽しみ方に重心を置いて考える。

撮影を手段と捉えれば利便性の追求となり、意識せず撮れる or 念じれば撮れる世界へと向かう。それとは別の方向性として、撮影を目的と捉えれば、不便益を楽しむ趣味として残り続ける。私はオールドレンズでマニュアル撮影する。そんな話。

手段であれば利便性、目的であれば不便益

先日「何のために写真を撮るのか?」を問うた。

WHYの問いを立てた時点で、何か別の目的に対する手段として撮るという前提に縛られていて、探求の範囲を枝刈りしていることに気付く。別の可能性として、撮ること自体を目的にすることがあっていい。

両者の対比として、「車に乗ること」における自動運転の進化は参考になる。

1-1. 移動の手段として運転する人に対して、自動運転車はハンドルを握る負担から解放してくれる。自動運転車に乗る人は、その空間で過ごす体験にだけ注力すればよくなる。
1-2. 運転すること自体を目的にすることは、趣味として残り続けるだろう。わざわざ手間をかけてクラッシックカーをリストアしたり、危険と隣り合わせでもマニュアル車を操ったりすること自体が楽しい。

移動空間で有意義な時間を過ごす体験を描いていたTOYOTAのCES展示は1-1.に近い。MAZDAは人馬一体を謳っていて、運転の楽しさを推す意味で1-2.に近い。このような対比は「写真を撮る」でも起こるだろう。

2-1. 映像入手の手段として撮る人にとって、露出・フォーカス・タイミングが合わないため撮影に失敗することは、目的を妨げる障害でしかない。だから各社はこぞって、誰が撮っても撮り逃しのないカメラを売り出している。
2-2. 撮ること自体を目的にする人は、失敗やコストがかかることも織り込み済みである。それでも、枚数制限や手間などの不便を味わう。

1-1や2-1は利便性の追及により、人間の負担を減らす。利便性が人間の仕事を奪うほど、1-2や2-2.は不便益と呼ばれる趣味の世界に向かう。以下では、2-1.と2-2.それぞれの方向性に対して、写真のミライを予測する。

2-1. 利便性の先に無意識に撮れる世界がある

自動運転車のカメラ版に思えたのが、Makuakeで見たCanonの自動撮影カメラ「PowerShot PICK」だった。利便性の意味でカメラを進化させている。ネットワークカメラのようにパン・チルト・ズームができて、生活の場に溶け込んで勝手に写真を撮ってくれる代物である。

今はまだクラファンだけど、プロダクトとして一分野を築き上げて次のステージにゆくと、カメラ自体が自走したり、ドローン飛行・充電したり、特別な場に複数個埋め込まれてユビキタスになったりするだろう。

表現力について、おそらく今のところ誰が「PowerShot PICK」を買っても同じような表現力の写真だろうけれど、機械学習と組み合わせられたら好みの表現の写真が手に入るようになる。

利用者がイイネした画像の構図やExif情報を学習すれば、好みの表現を持った画像を撮ってくれる。光学系はモデルが立てやすくシミュレーションできるので、撮影の試行錯誤はデジタルツインの世界で回して、自動的に賢くなってゆく。...という未来を妄想する。

利便性の果ての撮影ディレクション

撮影現場のお仕事を「ディレクション」と「機材操作」に分けるならば、表現を企てる撮影ディレクションの部分だけが人間の役割として残り、シャッターを切る作業はAIによって自動化できるかもしれない。

「シャッターを切る」という発想が古くなる。今だって決定的瞬間は連写するし、8K動画から写真を抜けばタイミングを狙う意味がなくなる。行き着く先は、全方位の動画を複数カメラで常時撮影しておき、空間全体をアーカイブして、後から狙った写真を手に入れる世界である。

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先日、機械学習を使って2枚の写真から動画をつくる技術が紹介されていた。デモは時間的な補間であるけれど、複数カメラをばら撒けば空間的な補間もできるだろう。

さらに進化すると、後からカメラ位置・タイミング・画角・ボケ味を指示すれば、構えてもいないポジションからの写真撮影を後から指示できる。リアルタイムに映像を生み出せれば、いよいよ映画マトリックスの追体験が近づく。

2-2. 不便益の楽しさは開拓の余地があるのか?

一方の不便益について考える。よく聞く例え話「富士山の登山道にエレベーターを付けると魅力が損なわれる」のように、写真を撮ることについても、下手に便利にすると楽しみを損なうのではないか。
http://fuben-eki.jp/whatsfuben-eki/

写真界隈のネタで言えば、翌日9時以降にしか観れない写真アプリ「Dispo」のような、意図的に不便益を楽しむ仕組みがある。「写ルンです」ばりに不便なのに、オンラインで繋がる新結合は楽しいのかもしれない。

だけど、不便の必然性やストーリー性において、時間の試練を生き抜いた本家「写ルンです」には敵わないのではないかと予想している。写真の不便益の魅力は、歴史の中で出尽くしているんじゃないだろうか。もちろん、あくまで私の未来予想なので覆されたとしたら嬉しい裏切りではある。

オールドレンズだから評価される訳ではない

私自身、祖父の形見のオールドレンズを使い倒すというストーリー性を味わいながら、今日もわざわざ不自由な絞り・SS・ピントを手合わせしてデジカメで撮っている。そうする動機は、それが一番楽しいからである。

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そのストーリーに共感してくれる人がいたら嬉しいけれど、基本的にはプロセスではなく写真の善し悪しで評価されるのが健全だと思う。「オールドレンズだから」という理由でフォトコンに選ばれるなんてことはないだろう。もちろん、AFでは出来ない細かいフォーカス制御が評価されることは良しとする。

「オールドレンズでしか出来ない表現」「フィルムでしか出来ない表現」みたいなものは、在るようで実は無いんじゃないか。レタッチ界で神のように崇めているJun.Sさんがfotomoti投稿にて、デジカメ写真をフィルムっぽく現像しているのを見て思った。

曖昧な言葉で思考停止するのもいけないと、以下のレシピ投稿で問題提議されている。撮りたいイメージがあって近づける努力をするものであって、「オールドレンズっぽさ」に引っ張られるのは本末転倒だ。

そんな問題提議に襟元を正した上で、それでもやっぱりオールドレンズで撮るのが楽しいからそうするのはある。

まとめ

撮影を手段と捉えれば利便性の追求となり、意識せず or 念じれば撮れる世界へと向かう。それとは別の方向性として、撮影を目的と捉えれば、不便益を楽しむ趣味として残り続ける。そして私はオールドレンズでマニュアル撮影する。

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