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紫がたり 令和源氏物語 第三十六話 末摘花(一)

 末摘花(一)

二条邸に女君が迎えられたという噂はすぐに葵の上の耳に届き、なんと好色で不実な夫かと思うと面白くありません。
身分賤しい女を見初めて正妻さながらに扱っていると陰口を叩く者もあり、葵の上は苦しんでおりました。
結婚して何年も経つというのに一向に溝は埋まらず、隔たりは深まるばかり。
思い悩んで涙することもありました。
一流の教養を身に着け、左大臣の愛娘として身分も高く、大切にかしずかれてきた葵の上は、感情を抑えて冷静に振る舞うことを正妻の嗜みとしてきましたが、感情のない人間などいるはずもありません。

そんな葵の上の本当の姿を知らない源氏は、こちら(葵)もあちら(六条御息所)も気の張る方々だ、と亡き夕顔を忘れられずに深い溜息をつきます。
どうにかしてあのような女性とまた巡り合えないものか、そう思っている時に、内裏にて側近く召し遣っている大輔命婦(たいふのみょうぶ)という女房から故常陸宮(ひたちのみや)の姫君の話を聞きました。
この命婦は源氏の乳母の一人、左衛門の娘で、昔から心安く、その道に詳しくさばけた性格でしたので、気楽に付き合える相手なのです。
命婦の話によると故常陸宮の姫君は宮の晩年にできた愛娘で、古風にゆかしくかしずかれた姫だということです。
今は頼りなく暮らしておられ、七弦の琴を友として慎ましくされているとのこと。
源氏はその暮らしぶりを夕顔に重ねながら聞いておりました。
「実際その姫君は美女なのかい?」
くだけて打ち解ける源氏の君を好もしく思いながら、大輔命婦は人懐こい笑顔で思わせぶりに応えました。
「とても恥ずかしがりやのお姫さまで、私などと話す折にも几帳の奥に下がっているものですから、お顔は存じ上げません。ですがおっとりとなさったおとなしい御方ですわ」
源氏はますます夕顔を重ねずにはいられなくなり、興味をそそられました。
「常陸宮様は管弦に秀でた御方だったから、姫の琴の腕前も大層なものに違いあるまい。七弦の琴を弾きこなす、というのもまた好もしいかぎりだね。この時期の朧月の夜になど愛でてみたいものよ」
源氏は暗に手引きして欲しいと言っているのです。

七弦の琴とは中国の古琴で3,000年以上の歴史のある琴です。
琴柱といわれる弦を支えるものが無く、徽(き)と呼ばれる印が13箇所あり、左指で弦を押さえて右指で爪弾く奏法が特徴です。それゆえに揺琴(ようきん)とも呼ばれております。
その七弦の琴を嗜むとは、なかなかどうして・・・。
源氏は古式ゆかしい深窓の姫君に想いを馳せて、悦に入っております。
命婦は姫の困窮した暮らしぶりを考えるとよい縁組みかもしれないと考え、この縁談をまとめてみせようと心を新たにしました。


数日後の十六夜の晩に源氏は約束通り故常陸宮の邸を訪れました。
十六夜の月は十五夜の月よりも半刻遅れて差し昇るもので、『躊躇い月』とも呼ばれます。
「源氏の君。十六夜のようなお姫さまですので、差し昇るのも時間がかかろうかと思われますが、そこはどうぞ気長にお待ちくださいませ」
大輔命婦の局に案内された源氏は十六夜姫とは粋なもの、と脇息にもたれて寛ぎました。

十六夜姫の傍らには老いた女房達が侍っております。
「姫君、お父宮ご存命の頃にはこのような趣のある宵はよく管弦の遊びなどいたしましたわねぇ。懐かしゅうございます」
姫君はそっと俯くと袖で涙を拭っておられました。
相変わらず言葉の少ない姫君よ。
如何にして琴を弾かせようかと大輔命婦は機転を利かせました。
「本当におっしゃる通りですわ。梅の薫りが高まる風情に楽を添えてみてはいかがでしょう?」
庭の梅を愛でていた姫は、大人しいながらも強情なところは無いようで、命婦の薦めに従い、そっと琴を手元に引き寄せました。
そうしてふと梅の香を吸い込むと、静かに琴を爪弾き始めました。
冴え冴えとした夜気に重々しく響く琴の音はなるほど風情のあるものです。
いささか古臭い弾き方かな、などと思っている間に琴の音は途絶えてしまいました。
姫の腕前がそれほどでもないと悟った命婦が絶妙のタイミングで演奏をやめさせてしまったのです。
もう少し聞けば上手いのか下手なのか判断がつきそうなものをまったく賢しい女房です。しかし姫をよい殿方と娶わせるのは女房の腕前次第なので、この大輔命婦はやり手ということになるのでしょうか。

源氏は次には文を出そうなどと考えながら帰路につきました。

次のお話はこちら・・・


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