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紫がたり 令和源氏物語 第六十三話 葵(六)

 葵(六)

葵の上の生み月はまだ二月ばかり先であるのに、近頃左大臣邸にはたくさんの僧侶がひっきりなしに出入りするようになりました。
源氏の子を身ごもった葵の上が物の怪に憑かれたようで、加減がよろしくないのです。
葵の上は始終何かに悩まされているようで、起きていれば物憂げにうなだれており、眠っていても突然苦しみだす有様で、心配した左大臣が祓いを得意とする僧侶を数多く呼び寄せたのでした。

賀茂祭での車争いの一件で、六条の貴婦人に恥をかかせた葵の上の仕打ちが気に入らなかった源氏は、また子供のように拗ねて身重の妻を顧みませんでした。
葵の上の本当の心も知らず、向き合おうともしない夫に、誰あろう葵の上その人こそ絶望しているのです。

いよいよ葵の上の加減が思わしくなく、意識を失ったままの状態が続くのを嘆いた左大臣は憑き物落しを得意とする徳の高い阿闍梨を呼び寄せました。
そのような事態に至り、源氏は慌てて左大臣邸を訪れた次第です。
「義父上、一体どうしてこのようなことになったのでしょう?葵は大丈夫なのですか?」
「それがどうしたことか皆目見当もつかず、ただ祈るのみでございます」
左大臣は源氏の訪れを喜びながらも、憔悴しきったように答えられました。
そこに阿闍梨が現れました。
「源氏の君であらせられますな。少しお話が出来ないでしょうか?」
鋭い眼光の阿闍梨に気圧されながら、源氏は神妙な面持ちで従いました。
人払いされた一室で、阿闍梨は静かに口を開きました。
「葵の上さまは非常に危険な状態でいらっしゃいます。何より生きようという意志が感じられませんのが、一番厄介なところでございます」
「何をおっしゃるのです?」
「さて、葵の上さまはこのまま儚くなってもよいとさえ、思っていらっしゃるのではないでしょうか?」
「子を授かり母となるのに、そのようなことがありましょうか?」
「そうですな。私は俗世にありませんし、女人の気持ちは測りかねますが、御心にかかることが多いのかと推察致します。どうか、励ましのお言葉を奥様にかけてあげてくださいませ。まずは生きる気力を持たせなければ、読経など何の役にも立ちませぬ」
阿闍梨の言葉に源氏は大きな衝撃を受けました。
常日頃から感情を表に出さない葵の上を心の固い冷たい女人だと恨んでおりましたが、思い悩んだ末に儚くなろうとしていたとは。源氏の正夫人として初めての子(春宮が源氏の子であるとは世に秘されているので)を宿したことこそ、鼻高々に誇らしくしているものだと考えていたものを。

源氏は愕然として葵の上の寝所を見舞いました。
葵の上は硬く瞳を閉じたまま、静かに横たわっておりました。
その美しさは変わらず、顔色を失い透き通るまでに白く、やつれた様子が痛ましい。子が宿っている腹部ばかりがふっくらとしているのが何とも残酷に思われます。
「葵、どうか目を開けておくれ」
この人がこのような姿になるまで放っておいたことが悔やまれて、源氏はその細い手をしっかりと握りました。涙が縷々と溢れて、それ以上の言葉を継ぐことができません。
微かに動いた指に源氏は葵の上の顔を覗き込みました。
「ああ、私はあなたを失ってしまうのかと気が気ではありませんでした」
葵の上は源氏が涙を流しているのを不思議な気持ちで眺めておりました。
惜しまれることもないと絶望していたのに、夫が涙を流している。
葵の上も何故だか心が温もり、理由もわからずに流れる涙はどうしたことか。
「先ほどまで意識を失っていたのですから、無理に話そうとはしないでください。ただ回復することだけを考えて。生きるのですよ」
そう励まされて、葵の上は力なく頷きました。

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