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紫がたり 令和源氏物語 第六十四話 葵(七)

 葵(七)

葵の上が生きる気力を見せたことで、阿闍梨は良い兆しであると気を引き締めました。
退魔の護摩を焚き、経をあげ、招人(よりまし)と呼ばれる者に物の怪を憑依させて退治をします。
葵の上には居並ぶ僧侶達も驚くほどの数の物の怪が憑いておりました。
招人に次から次へと乗り移り、それは父君の左大臣に恨みを持つ者やら、葵の上には直接関係の無いような家柄を恨むものまで。
ただその中に一つだけどんなに尊い経をあげても正体を隠して執拗に葵の上を悩ませるものがありました。
並々ならぬ執念深い様子に阿闍梨を始めとした僧侶たちもこれは只事ではないと噂しあいます。
その者こそがもっとも葵の上を苦しめているのです。

「源氏の君を慕っている女の生霊としか思えませんわ。さしずめ二条邸の女君か六条の貴婦人あたりでしょうよ」
などと、左大臣邸の女房達が陰口を叩くのが、いつの間にやら世間に漏れ、六条御息所の生霊が葵の上を呪っているという噂が世間に流れておりました。


「言いがかりも甚だしい。なんと酷いことをいうのでしょう。あんまりですわ」
御息所の女房達は憤慨しましたが、御息所自身は妙な胸騒ぎを覚えます。
あの車争いの一件以来、御息所の物思いは深く翳りを帯びたものになりました。
それまで葵の上のことを気にかけることもなかったのですが、「愛人風情が」と侮辱されたことが心にわだかまっているのかもしれません。
賤しい者にまであのように見下され、あの日よりそのことを考えなかった日など一日もないのです。
考えれば考えるほど心の闇は深くなり、時折起きていても気を失うようなことがよくありました。
もしや私の魂が本当にこの身を抜けて葵の上を悩ませているのではなかろうか。
御息所は誰にもこのことを打ち明けられず、自身をも蝕んで、床に臥せってしまわれました。

御息所の病を聞いた源氏は例の生霊の噂のこともあり、重い腰をあげてお見舞いに出かけることにしました。
久しぶりにお会いした御息所は大層やつれながらも、女盛りの美しい風情で脇息にもたれかかっておられました。
はらりと額にかかる髪もぞくりとするほどに色香が漂っております。
源氏は賀茂祭での葵の上の非礼を詫び、あちらも病のために看病などで出歩くのを謹んでおりました、と言い訳をしました。
御息所はそんなうわべだけ取り繕ったような言葉が欲しいわけではありません。
またそのような見え透いた言葉を飾ればごまかしがきくと思っている源氏を残酷な方だと恨めしく思いました。
伊勢へ下るということは、その任がいつ解かれることになるかわからないので、今生の別れになることも多いのです。
源氏がその話題には極力触れないように努めているようで、御息所を引きとめようなどは微塵も考えていない様子がありありと滲み出ております。

御息所は絶望しました。
一縷の望みをかけていたのです。
また、もしも源氏が「行かないでほしい」と言ってくれたならば、その言葉を胸に伊勢へ向かうことができるだろうに、とも思いました。
女は男が自分を愛しているのだと感じられれば心を強くもって別れることができるのです。
そのような優しさもこの方にはないのかと、憎く思われるばかりなのでした。

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