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紫がたり 令和源氏物語 第三百九十二話 鈴虫(一)

 鈴虫(一)
 
少し前の初夏の頃、六条院の蓮池が凛とした花で彩られた時分に出家した女三の宮の御持仏の開眼供養が行われました。
源氏が宮の為に作らせた御仏です。
阿弥陀如来の左右には観世音菩薩と勢至菩薩が従い、すべて白檀で作られた像は慈悲深く上品な面をしておられます。

紫の上は宮の突然の出家に驚き、それを源氏が赦したのですから羨む心を抑えきれませんでした。
そこにはどんな事情があったというのでしょう?
世間の人々は産後に病弱になられた宮が御仏の功徳を求めて出家したのだと納得したようですが、死の淵を彷徨いながらも出家を赦してもらえなかった紫の上には得心がゆきません。
何より夜更けに朱雀院が六条院を訪れて自ら髪を下されたというのが尋常ならざることに他ならないもの。
紫の上はその背景を探ろうとも考えませんでしたが、やはりおのが身の思うにならぬことを嘆かずにはいられないのです。
それでも女三の宮の法要の為に心をこめて仏前にかける御旗などを整えるのはこの女人の人を慈しむ穏やかな気性からなのでしょう。
 
女三の宮はというとやはり茫洋としておられます。
源氏が世話をしなければ御仏の供養なども務められる才覚はないのです。
かつて必死に七弦琴を稽古した時などは目にも生気が宿り、目的をもって自我を形成していたかに見えましたが、運命の紆余曲折で宮はもうすべてを諦めてしまわれました。
源氏と顔を合わせるのも心苦しく父院のおられるような山に籠りたいとさえ願うのですが、源氏はそれを赦そうとはしません。
それどころか今になって宮を惜しみ未練を滲ませるのが辛く感じられてならないところです。
女三の宮の出家は例の御息所の死霊が働きかけたのだということが明らかになり、源氏はまんまと思う壺にはまったことが悔しく、宮の短くなった髪を見る度に胸が痛みました。
そして他愛なくいられる御姿が不憫で一時は酷い仕打ちをしたものも過去のことと都合よく忘却の彼方へ押しやってしまったようですが、辛い思いをした宮の方はそんな源氏が疎ましくてならないのです。
 
源氏はこの開眼供養を迎えるにあたり、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)に迷う生類のために六部の法華経を書かせ、女三の宮の御持経には御手ずから阿弥陀経を書きました。
そして願文には女三の宮との夫婦の縁が来世までも続くようにとしたためたのです。
 
開眼供養当日にはこだわりの香をくゆらせて、それは格調高く場を整えました。
しかしながら宮に仕える若い女房たちなどはあいも変わらず浅薄で軽々しい様子。
女童に香を煽らせて煙がもくもくと立ち込めているのです。
源氏は仕方なしにこまごまと注意する始末。
「どうしてこのような狭いところでひしめき合っているのですか。それにこのもうもうと炊き込めた香は何です?空薫きというのは仄かに薫るのがよいのですよ。それと説法の際にはあちこちうろうろせずに私語は慎んでくださいね」
このような基本的な嗜みもない女房たちでは源氏の嘆息も無理からぬところでしょう。
「薫君のような幼い人がこちらにおられるのもどうしたことです?乳母たち、あちらの対へお連れして」
一から十二以上を指示しないとなんとも体裁の整わない見苦しさに頭が痛くなります。
 
女三の宮の側には宮に殉じて髪を下した者が控えておりました。
なんとその中にはかの秘事を手引きした宮の乳姉妹・小侍従の君もおります。
自分勝手で蓮っ葉な今時の女人でしたが、どうした心境の変化でしょうか。
小侍従は宮と柏木のことを把握する数少ない者でしたが、己の仕出かした事の重大さを知り、柏木の哀れな最期を目の当たりにして贖罪の気持ちから落飾したのでした。
装束も派手好みの人でしたが、今ではすっかり尼らしく鈍色の衣に身を包んで落ち着いたように見えます。
若い身空で惜しいこと、と周りは驚きましたが、小侍従はこの頼りない宮と命果てるまで共にあることを選んだのです。
源氏は大勢の客人に尻込みしている宮に説法や読経聴聞の心得などを一通り説いて聞かせた後、やるせない溜息をつきました。
「まさかあなたと一緒に仏事供養をすることになるとは思いませんでしたよ」
源氏は女三の宮の薄紅色の香染の扇に歌を書きつけました。
 
はちす葉をおなじうてなと契りおきて
      露のわかるるけふぞ悲しき
(来世には同じ蓮の上に生まれようと契りましたものを、今は生きながら別れているのが私には悲しいのですよ)
 
女三の宮は目を伏せてそっと返されました。
 
へだてなく蓮の宿をちぎりても
    君が心や住まじとすらん
(あなたは後の世の蓮の台(はちすのうてな)をお約束なさいましたが、本心ではわたくしなどと一緒に住もうとは思っていられないことでしょう)
 
源氏は返す言葉もみつからないのでした。

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