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紫がたり 令和源氏物語 第四百四十三話 幻(十ニ)

 幻(十ニ)
 
紫の上の一周忌を無事に終えて、源氏はいよいよこの世との別れが近づいたと心を整えております。
そうとはいえ、この二条院はあまりにも上との思い出がありすぎるのが辛いところなのです。

五節である九月九日の重陽は菊の節句とも呼ばれておりますが、この日には長寿を祝う風習があります。
菊は奈良時代に薬用として我が国へ渡来しました。
中国には菊にまつわる長寿の伝説があるのです。
その昔、深山のとある村で長生きする人達が多い所があり、彼等が生活に用いていた川のほとりには菊が生えていたということです。
菊は霊性の高い花と言われ、特に水辺に咲く菊には長寿の効果があると言われてきました。
そうしたことから我が国でも菊の節句が設けられ、この日には菊を愛でるようになったのです。

平安貴族は重陽の前夜に菊に水を少し含ませた綿を被せ、その香りを移した綿で体を浄め(被綿=着せ綿)、菊の宴を催して菊を浮かべた酒(菊酒)を飲みながら、菊にちなんだ歌などを詠んで長寿を願ったのです。
女房たちが菊に綿を被せているのを見ると、紫の上がそうして源氏のために長寿を言祝いでくれたことを思い出さずにはいられません。
紫の上が願ってくれた通りにこの身が永らえているのがなんとも皮肉に思われて複雑な君なのです。
 
もろ共におきゐし菊の朝露も
     ひとり袂にかかる秋かな
(かつては上と二人で菊に綿を被せたものだが、今菊の露は私の袂だけを濡らす秋となったよ)
 
雁の飛び交う季節になると、女夫(めおと)が羽を打ち交わして離れずに飛ぶ姿を、その睦まじさが羨ましくなる源氏です。
雁は彼岸へと私の心を運んではくれぬだろうか。
 
大空を通ふまぼろし夢にだに
見えぬこの魂のゆくへ尋ねよ
 
白居易の「長恨歌」に、幻術を会得した術者が傾国の美女と謳われた楊貴妃に会いたいとその魂を求めて大空を翔けり飛んだという話があります。
源氏は雁を見てその幻術士が空を駆ったというのを思い出したのでしょう。
一度も夢に現われない紫の上の魂がどこにあるのか教えて欲しい、と雁に問いかけながら詠んだのでした。
亡くなった人が夢に現われないのはその人の魂が安らかに眠っている証だと言われておりましたので、源氏には紫の上らしいことである、と思いつつも、せめて夢でもう一度逢うことさえできたならば、と願わずにはいられないのです。
この二条院で源氏は幾度となくそこかしこに紫の上の幻を追いかけたものでした。
しかし言葉をかけようにもすり抜けてしまう。
夢ならば言葉も交わすこともできようか、と上恋しさに詮無きことを夢想する君なのでしたが、どうにも上が現れてくれないのを喜ぶべきか、悲しむべきか、複雑な思いに苛まれるのでした。

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