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紫がたり 令和源氏物語 第三百八十九話 横笛(六)

横笛(六)
 
いつしかうとうととしていた夕霧は亡き柏木の夢を見ました。
夕霧が一条御息所から賜ったあの名笛を手に取り、しげしげと見つめております。
この笛に想いを遺して私の前に立たれたか、と思うと、柏木は生前と変わらぬ柔和な表情で夕霧を見据えました。
 
笛竹に吹きよる風のことならば
    末のよながき音に傳へなん
(竹に吹き寄る風のように吹き伝えることが出来るのならば、この笛は子々孫々に伝えたいと思う逸品でした)
 
「この笛は伝えるべき人があったのだが、君の元へ渡ったのだね」
そう柏木が寂しそうに笑うので、夕霧は誰に伝えるべきなのかを問おうとしたところ、赤子の鳴き声で現実に引き戻されてしまいました。

はたと目を覚ますと、幼い若君はひきつけを起こしたように泣きじゃくり、雲居雁もその尋常ではない様子に狼狽します。
「よからぬ物が入って来そうですわ。あなた、はやく格子を下してください。若君、大丈夫ですよ」
そうして赤子を宥めすかすようにして抱いて背を撫でる姿は慈愛に満ちた母のものであるので、夕霧はそんな妻が愛おしく感じられます。
「若君はどうしたというのだい?」
「あなたが浮かれて月見などなさるから物の怪でも入り込んだのでしょう。子供は敏感ですのよ」
近頃恋に現を抜かす夕霧をあてこするような、美しい恨み顔にたじたじとした夕霧は即座に言い返すことも出来ません。
「私が物の怪を引き入れたように言うのだね?まったく大勢子をもつといろんな知恵が回るものだ」
しかしたしかに柏木がここに来ていたというならば、人ならざるものを招き入れたのは夕霧の仕業ということになるでしょう。
赤子は母の乳房に触れていることで安心できるものなので、雲居雁は若君を抱き上げると胸元をはだけて乳を含ませました。
その様子を覗きこもうとする無遠慮な夫の存在は邪魔で煩わしい以外の何者でもありません。
「見苦しいなりをしておりますので、どうぞあちらへいらっしゃってください」
母としての妻の姿はやはり神々しく美しいもので、いつまでも眺めていたいのですが、たしかに遠慮のない仲といっても見られる雲居雁は恥ずかしいに違いがありません。
もしもこれが女二の宮であれば言われずとも遠慮したでしょう。
嗜みのある妻を貶めているのは自分自身であることに夕霧は気が付いておりません。
「そのように邪険に扱わずともよいではないか」
女房たちが魔除けのまじないに米を播きはじめたのがまた面白くなく、
「ああ、やかましいことだ」
と夕霧は仕方なしにその場を退散することにしました。
 
若君はどうしたわけか一晩中むずかって泣き続けておりました。
それはやはり亡き柏木の御霊がここにやってきたということでしょうか。
それ以来夕霧はあの夢を思い出す度にこの笛の存在が厄介に思われてなりません。柏木がこの世を彷徨っているならば、己の女二の宮への懸想も知られているようで、それを何と思われるかと羞恥の念に苛まれるのです。
何の気なしに賜ったものの、吹けば柏木はまた現れるかもしれません。今はもう吹いてみようという気さえ起きないのでした。
成仏もなかなかできぬであろうと考えると親友が不憫に思われて、柏木を葬送した愛宕の念仏寺に追善供養を、さらに柏木が帰依していた極楽寺にも手厚い供養を命じました。
いっそこの笛を寺に奉ろうかとも思い悩みましたが、本来であれば伝えるべき処へ納めるのが望ましかろうと考え直します。
心当たりがあるとすれば、それはあの六条院をおいて他にはないでしょう。柏木の臨終の際の言葉はそのまま、父・源氏には未だ伝えておりません。
事の真相を問いたい気持ちがあるものの、どうした風に切り出せばよいか皆目見当もつかず、父も気まずかろうと慮ってのことで、これまでおざなりにしたままなのでした。
おそらくは夕霧が推測した通りの事実が秘されているのでしょう。それ意外に柏木と父の間にわだかまりがあるとは考えられないのです。
夕霧はなにはともあれ父にあたってみよう、と六条院に参上することを決めました。

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