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時代は変化するのに、変化しない学校。「ひきこもり先生」が描いた、子どもの息苦しさ。

最近、NHKの土曜9時枠のドラマがアツい。

今クールは、先日最終回を迎えた
佐藤二朗さん主演の「ひきこもり先生」

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天下のNHK、公共放送局だから予算はたっぷりあって、ドキュメンタリーとか自然科学系番組、いじめや引きこもりなど社会問題を取り上げた番組など総じてクオリティが高いなと思っていたが、

やはりそれでも公共放送。

世の中の風潮に疑問を投げかけるようなドラマなんかはタブーかなと思いきや、作り手側の「意思」を感じる、骨太なドラマを作ってくれていてなんだか嬉しい。

今回の「ひきこもり先生」、あらすじは公式サイトから。

11年間のひきこもり生活を経験した主人公・上嶋陽平は、ひょんなことから公立中学校の非常勤講師となり、不登校の生徒が集まる特別クラス「STEPルーム」を受け持つことに。複雑な家庭環境、経済苦、クラスの中での居場所のなさ…一筋縄ではいかない中学生の心に深く分け入り悪戦苦闘!
これは、新時代への不安と向き合いながら社会とのつながりを模索する大人と、子どもたちの物語。「生きていける場所」を求める日本人へのメッセージを送ります。

不登校は他人事ではなく、わたしの周りにもある。さらに、うちの息子も繊細なところがあり、マイペースで、決められたことを押し付けられるのが嫌いで、とりあえず学校は行ってるが、「学校嫌い」はデフォルトだ。

足並みを揃えなくてはいけないシーンが多い学校で、人に合わせるのはかなり疲れてしまうため、「学校やだ」はよくある。

なので、不登校はわたしにとって、「対岸の火事」ではない。割と自分ごととに近い感覚だ。

時代は変化するのに、変化しない学校


昔のようにプロトタイプな「幸せの形」がなくて自由なぶん、しんどいことが多い世の中になったと思う。

けれど、その時代の変化に合わせて学校が変わったかというと、ビックリするほど変わっていない。

息子を小学校に入れてみて感じたのだが、なんとなく今どきっぽい教育は取り入れていても、わたしが幼い頃の小学校と体質が全く変わっていなくて驚いた。

公立学校にはありがちな「変化をしたがらない」体質。

なんとなく表向きは「個性を認めましょう」と謳いながら、中身は旧態依然の横並び教育で、昔よりちぐはぐな印象だ。

体操着の下に肌着を着ない、など、理由がハッキリしない謎ルールもいまだ現役バリバリ。冬でも体育は半袖半ズボンは、戦時中から変わってないのではないか。

小学校の、とりあえず「ルールはルール」という融通の効かなさ、いざとなった時の「ことなかれ主義」にもウンザリしていた。

何かいざこざがあっても、話は平行線。もやしっ子の息子が手を出され続けていたクラスメイトをある日やり返した。とはいえもやしっ子なのでちょっと叩いた程度だ。そしたらいつもちょっかいを出してくるそいつが泣いて、クラスの誰かが先生に言いに行ったらしい。

お互いに腕っぷしが弱いので、怪我をするほどの大ごとではなかったが、先生から電話がかかってきて一部始終話を聞いた。

実は、息子がちょっかいを出されているのは以前から本人から聞いていたが、学校に言わないでほしいといわれていたので、ときどき話を聞いてガス抜きさせながら静観していた。

もしかしたら、何かトラブルがあるかもしれないというのは覚悟していたが、軽く済んでほっとしたくらいだ。

こちらはそれも把握していて、先生にも以前からトラブルがあったことを伝え、「ずっと叩かれていたから、今日は叩き返した。」というのは、暴力はいけないということはもちろん言い聞かせるが、今後、息子が自分で自分の身を守るためには「絶対にしてはいけない」とは言えない、と言ったら、先生からは「いえ、暴力はいけません」の一点張りで話が進まない。

では、「やられてもやり返したらいけないんですね、叩かれっぱなしでいろということですか?」と言ったら黙る。

先生に相談したら余計大ごとになって面倒なことくらいわかってる。小学校高学年で、先生に言いつけて何かを解決しようというやつは逆に確信犯だ。

担任がこんな感じで、では校長はどうかというと、これまたタチが悪い。

「お気持ちお察しします」と心痛な面持ちで同情はしてくださるが、華麗にスルーで揉み消す。笑顔だけはとびきり最高な校長で、おそらく教育委員会のお気に入りで評価も高いだろう。

「ひきこもり先生」に登場する教師の面々はやはりそんな感じで、大義名分だけは立派な校長と、声をあげないことなかれ主義の教師たち。あるあるすぎる。

そりゃあ、本質的におかしい、と勘づく子は多いだろうし、その「おかしさ」を大人が抑え込めば歪みができる。ある程度の鈍感さが無いと横並びの学校生活は楽しめないのでは無いかと思う。

さらに、「ひきこもり先生」で出てくるように、いじめも見て見ぬ振りでは生徒があまりに浮かばれない。そりゃあ行きたくなくなるし、頑張っていこうとすればするほど身体が拒否するのも当然だ。

「問題なし」は問題がないのではなく無関心の現れ

今の公立学校の先生は、子どもの成績については基本ノーコメントだ。相対評価から絶対評価に変わり、学校内の成績順位が出ないから立ち位置がわからない。よほどのことがなければ「問題あり」と言われない。問題があるのは、成績がどうこうではなく、クラスをかき乱す子たち。先生はそういう子の対応に追われて、手のかからないおとなしい子はあまり目に入らないようだ。

わが息子は家では殿様だが、学校ではおとなしいので、面談があるたびに「問題なし」と言われ続けた。宿題らしきプリントはランドセルの底で蛇腹になっていたし、小3くらいから漢字テストの0点を取っていたので、そのことに触れると先生はバツが悪そうに「そういえば・・・そうですね。でも問題ありません」といった。先生的には、クラスを乱さず、とりあえず生きてればオッケー、あとは親頑張れ、ヨロシク、な感じだ。

絶対評価と言って成績ランキングは出さないけれど、運動会のリレー選抜は普通に行われる。結果、学校では足の速い子が花形だ。運動が苦手で勉強が得意な子はイマイチということなのだろうか。

残念ながらわが子は運動はイマイチどころかイマ三、勉強ものんびりで、理解力はあると思うが、勉強をやらないのでテストもいまいち。こういうマイペースっこは手がかからないので一番放置されやすい。

「埋もれてしまう」という言葉がこういうことかと実感した。実際、器用な子が得をするように出来ているなぁ、と我が家のような不器用な親子は思ってしまう。

高校受験は「塾頼み」公立中学の実態に驚き


小学生まではまだしも、中学なら高校受験があるし、高校は大学受験がある。けれど受験の指標になる相対値は出ないそうだ。我が家は中学から私立に入れてしまったので、ここから先は実際に公立中に行った複数の人たちからの伝聞だが、ウワサではなく実際に受験の面談でも中学の先生の出番はほとんどなく、受験に関することは塾に頼るしかないそうだ。学校は勉強を教える場なのに、成績は「塾に聞いてください」となると、学校の使命はなんなのだろうか。


さらに謎な仕組みがある。

高校受験では、本番の試験のほかに、「内申点」という、日常点が合否の大きなウェイトを占める。定期テストの成績に加え授業態度や提出物などを総合して成績がつけられる。どんなにつまらない授業でも、寝たらアウト。真剣なまなざしで授業を聞き、適切なタイミングで質問をして授業を盛り上げ、しっかりノートを取る、いわゆる「優等生」が良い内申点を取ることができる仕組みだ。


さらにさらに恐ろしいことに、中学の内申点は、生徒会やチームプレイの部活代表を務めれば加点がある。

要は、勉強以外の要素として、「おとなしく先生の言うことを聞き、ときに媚を売り、集団の中でリーダーシップを発揮できる」要素がないと、偏差値の高い高校には行けないのだ。

「真面目に授業を受けるのは当たり前じゃん。」と思う方も多いかもしれないが、学校の先生は教えるのが仕事だが、みながみな「知的好奇心をかきたてる興味深い授業」をしてくれるわけではない。

ご自身の学生時代を振り返れば、すぐに「そう言われてみれば、そうだ」という教師の顔が浮かぶだろう。

わたしも高校時代、声が小さすぎて何を言ってるか聞こえない教師や、ずっと自慢話をしている教師、生徒に問題集をやらせている間、寝ている教師など、バリエーション豊かな教師との出会いがあった。もしあんな授業が展開されていたら、授業を積極的に聴いていろというのは私には無理なので、子どもにも強制できない。自分ができないことをなるべく子どもに強制したくない。子育てはいい加減ながら、そのあたりは真面目にやっている。

そんな制度を知って、以前から小学校の体質にウンザリしていたことと、公立中学に進んだ場合の内申制度はうちの息子には圧倒的に不利であることと、そもそも子供を飼い慣らすような受験制度に拒否反応が起こり、我が家は息子を私立中学に入れるべく中学受験をした。

神奈川の田舎住まいで、通学圏内の選択肢はあまりなかったが、比較的自由で、お勉強もうるさくなく、元気な子もおとなしい子もそれぞれ楽しんでね、という雰囲気の学校があったのでそちらにご縁をいただき通っている。

私立に入れたからといってトラブルがないわけではなく、それでもやはり中学生男子、当然いざこざはあるようだが、とりあえず文句を言わずに行っているので、表情などは気を付けて見つつ、静観している。

去年、受験で合格するも、コロナ休校で6月までは自宅でゴロゴロ。7月くらいからやっと通学するようになった当初、せっかく場所を新たにしたのに、やはり新天地でものび太ぶりを発揮してしまい、あれこれちょっかいを出されていたようだ。ときどき行きたくない、と言っていたことがあったが、わたしが先生に相談しようかと思う前に担任の先生が気づいて話をしてくれていた。若いお兄さん担任だったのだが、とても目が届いていてこれは助かった。

中2になり、いよいよ「中二病本番」で今年はヒヤヒヤしていたが、今のところ去年よりは楽しそうに、というか、文句言わずに学校に行っている。本人曰く「ド陰キャ」らしく、部活も当然文化部、しかも入部したもののほぼ帰宅部状態で、よくある「青春!」て感じではないけど、今のところそこそこ楽しんでいるようでほっとしている。成績はめちゃくちゃ言いたいことがたくさんあるが、高校受験を避けての中学受験だったので、中2の今は行ってるだけでとりあえず良し。追い出されない程度に頑張れ、という感じだ。


学校は、「人に合わせる訓練」をする場所です

「学校は、人に合わせる訓練をする場所です」


ドラマ「ひきこもり先生」に出てくる胡散臭い校長が吐くセリフだ。

言い得て妙。そうだ、結局「個性を大事に」と言いながら、
「みんな仲良く」だの「廊下を走らない」だの、あれこれ押し付けてくるのは、人に合わせる訓練だからだ。

そうやってさんざん、学校では「人に合わせる」訓練をさせておいて、なぜか大人になったら急に「やりたいことをやりなさい」と言われる。そりゃあ言われた子どもたちは困るだろう。

飼い慣らしておいて、いきなりハシゴを外すと迷子が出る。大人になってからの引きこもりが増えているのは、このあたりも原因の一つではないか。

わたしは持って生まれた素質のせいか、放任主義の母親に育てられた成果、はたまた自由過ぎて家にも帰らない父譲りなのか、横並び教育を受けて、周りの目も気にしていたのに、やりたいことは次から次へと湧いて出てきて、群馬の片田舎でも興味のある習い事を片っ端からやりたいといった。小学生のころから自分で教室体験に申し込んで体験に行ったり、ずいぶんと行動力のある子どもだったと思う。

今もその性質は変わらず、やりたいと思うことはどうしてもやりたい。我慢するとストレスで、我慢するくらいなら、実現する方法を脳みそをフル回転させて考える方に行って、結局実現してしまう。フラメンコにはまって10年、今年はスペイン語を始めて、まだこれからスペイン旅行や行きたい場所、やりたいこと、たくさんあって生きてるうちにこなせるか微妙なくらいだ。

だが、わたしのような人間は割と少なく、「やりたいことがわからない」というひとが結構多いと聞く。

やりたいことをやろうとすると、生きる元気が湧く


やりたいことが分からない、やりたいけど誰かに許可を得ないとできない、というのは結構しんどいことだと思う。

自分がやりたいことを妨害されると発狂してしまうタイプなので、ゲームをこよなく愛し、日々鍛錬している息子にはあまりあれこれ言わないようにしている。

ただ、どこの中学生男子の親もあるあるで、意外と高額の課金には頭を悩まされ、たとえお年玉があったとしても、すんなり課金させるのも躊躇させられる。なので、ちょっと高額な課金の場合は、どんなもので、どうしてそこまで欲しいのかを説明し、わたしの心を動かす説得が出来たら検討することにしている。

すると最近は息子のプレゼン能力が上がった。

デジタルコンテンツなんか、消えものでもったいない、というわたしに対して、「母ちゃんにとっては大したものじゃないかもしれないけど、俺にとっては、母ちゃんにとってのフラメンコくらい好きで大事なものなんだよ」

と言われて心がグラリと動いた。

わたしにとってフラメンコはライフワークだ。上手いとか下手ではなく、奪われたら窒息しちゃうくらいハマっているものだ。仕事の合間にフラメンコをしているのではなく。フラメンコをするために仕事をしている。

そんな私の特性を見抜いて、このたとえを持ち出した息子には思わず賞賛の言葉を与え、うっかり課金を許してしまった。人なんて感情の生き物で、そんなもんである。

やりたいことを、どうにかして実現させたい!と思う心は、生きる力を湧き上がらせるのではないか。

逆に、やりたいことを拒否され続けると、生きる力を失ってしまうのではないだろうか。

必要なのは、自分がここにいることを肯定してくれる誰か

「ひきこもり先生」で不登校の子たちが集う「ステップルーム」の生徒たちは、親に否定されてきた子が多い、という設定だった。親の希望の押し付け、放任すぎる親、もっともっと親に自分のことを分かってもらいたいと願う子が集まっていた。

わたしも繊細な子を授かり、ずっと悩みながら手探りで育てているので、答えのない育児に奮闘中の身であるが、やはり子どもが一番いい顔をするのは、子どもが自分の話を興味を持って聞いてもらっているときだな、と思う。子どもは自分のことを認めてほしい。ただそれだけなのかな、と思う。

わたし自身の父親も、わたしに興味がなく、寂しい気持ちになったのを思い出す。授業参観、運動会、ほとんど来てもらった記憶がない。一緒に遊んだ記憶もない。どちらかというと父は気分屋で扱いにくかったし、自分のことばかり話す人だったので、自分のことを理解してもらうことは半ばあきらめていた。そうこうするうちにわたしも父に話しかける機会が減り、まともな会話をしないまま父は他界してしまった。

わたし自身も中学時代は暗黒時代で、学年全体でわたしをからかう、という、何かされるわけではないけれど、常に嘲笑の的、という蛇の生殺し状態で数年過ごしたわけで、今の時代ならわたしだって確実に不登校になっている。当時、不登校はタブーだったので、カレンダーに×をつけながら「あと〇日」とカウントダウンして苦しみながら通った。しんどすぎて、ある日突然ヤンキーデビューをしたら、みんなわたしをからかわないかしら。とか思っていた。当時のわたしに不登校の選択肢があれば、また違っていたのかもしれない。

自分の経験を振り返って、自分のことを分かってくれる人、というのがいれば人は元気になるのかもしれないと思うので、できるだけ息子の話に耳を傾け、どんなことが好きで、何を感じているのか。それを「親フィルター」を通さずに聞くようにしている。もちろんいつも順調とは限らないが、息子にはできるだけ「いい顔」をしていてほしいと願っている。

まずは大人が幸せになること

 
「ひきこもり先生」劇中にもあるように、子供が幸せになってほしいなら、まずは大人が幸せな姿を見せることが1番だと思う。それを見ることで、大人になるって楽しそうだな。と思えるのではないだろうか。人はその言葉ではなく行動を見て育つと聞いたことがあるが、まさにそうだ。私自身もそれは共感している。

息子が小さい頃は手も目もを離せず24時間セコム状態だったので、そもそも好きなことをするとか何とか考える余裕もなく、子育てに必死だった。子供はたまらなく可愛く、子供の成長、子供自身の可愛さにも勉強していた時期だったが、やはり自分の自由な時間が少なくて、鬱々としていたかなと思う。

ここ最近は息子も中学生、生意気盛りだが自分でできることも増え、わたし自身の楽しみ、例えば子供が喜ぶアニメ映画ではなく、自分が本当に見たい映画を見に行くとか、そういう時間をできるだけ確保するようにしたり、このように自分個人の思いをノートに書いたりするのも、自分の時間である。

毎日色々な事はあるけれど、今年48歳、人生折り返しを過ぎた今、自分の人生に生きるだけご機嫌な時間が多いように意識して過ごしている。そううまくいかない真っ暗な時期も当然あるんだけど、その時期があったからわかることもあるし、人生に無駄がないと思っている。
 
日本の話をすれば、大人が疲れすぎているように思う。それは日本の同調圧力だったり、気質だったり、自分で自分たちの首を絞めているような気もしなくもないが、その連鎖から抜け出し、少しでも良い方向に行けるように、今いる自分の立ち位置からできることを、ちょっとずつでも工夫していければいいかなと思う。その第一歩は、まずは自分が自分なりの幸せに気づくこと。楽しそうな人の周りには楽しそうな人が集まるものだ。

NHKドラマのことを書くつもりが、えらく脱線してしまった。「ひきこもり先生」は、5話完結と駆け足なドラマだったが、こんなわたしの思いを引き出してくれるドラマだったと思う。

またNHKが創る骨太なドラマを楽しみにして、今日も息子の話に耳を傾けてみようと思う。

今日もお読みいただきありがとうございました!

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