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野原に咲くタンポポは「思いやり」を教えてくれる。

高校一年生のころ

隣のクラスの男の子が電車に跳ねられて亡くなった

踏切のない線路を渡ろうとして
跳ねられたのだそうだ

当時ニュースにも取り上げられて
学校はもちろん小さな田舎町に住む人々は
みんな騒然とした

とても悲しい出来事なはずなのに
わたしは上手に悲しめないでいる自分に
なんだか矛盾を感じて
もどかしさを感じたのを覚えている


その理由は二つあった


一つは彼が跳ねられた現場に残されたもの

彼の持っていた荷物とはべつに
スマートフォンとイヤフォンが落ちていたそうだ

警察は彼がイヤフォンで音楽を聴きながら
自転車に乗っていて
踏切の警告音や電車の近づく音に
気がつけなかったのだろうと言っていた

それまで私は「踏切がない線路」が
原因であると思っていたけれど
それだけじゃないことに戸惑いを感じた


もう一つはわたしが高校に入学したばかりで
彼と話したこともなければ
顔も声も知らない人だったからだ

「隣のクラスの男の子が亡くなった」

それはもちろん悲しい出来事なんだけれど
喪に服せるほど気持ちがついていけない


きっと私はその出来事を
ちゃんと悲しむための理由を探そうとしていた


でも考えれば考えるほど
そうなれない理由ばかり出てきてしまった


わたしは彼の痛みも、遺族の痛みも
彼の友人や恋人の痛みも
表面に浮かぶ上澄みの部分しか理解できない


わたしの周りでは
彼の死について賛否両論の意見が飛び交った

きっとみんなも悲しむための理由を探している

まるでタンポポの綿毛のように
一つの出来事から無数の意見が飛び立っていく


私はその綿毛を掴むことはできないし
掴んでもいけないと思った


そしてやっと気がついた


綿毛が飛んでいってしまったタンポポの
ありのままの姿をみつめるべきなのだと


原因はどうあれ

関係性はどうあれ

その出来事自体を悲しむべきであると


それから数日後

彼を乗せた大きくて真っ黒な車が
学校のまえを通り過ぎていった

わたしは黙祷を捧げながら
鼻の奥が少しだけむずむずして
目の奥が熱くなるのを感じることができた


そうして私は「喪に服す」ことの意味を
はじめて知ることができた気がした




人の痛みというものは
その人にしかわからない

それを無理矢理にでも
理解しようとするものではないし

そこに足を踏み入れようとすることは
”相手のため”ではなく”自分のため”の行いであって

自分が感情移入するために必要だと思うから
してしまうことであるわけだ

だからこそ私たちは
目の前にあること、あるかもしれないことに、
身体ではなく心を傾け続けることが
必要なのかもしれない


そして同時に

”真実”を包み隠す”事実”ばかりに
目を向けることもしてはならない

事実ばかり見てしまったら
いつか真実が見えなくなってしまう


タンポポは雨の日も風の日も
はたまた人に踏まれたって

置かれた場所で健気に花を咲かせる

そしていつか綿毛になって新しい命を宿す


タンポポが”真実”

綿毛が”事実”だとするならば

風に乗って飛んできた小さな事実は
真実のたった一欠片でしかないということ

そして綿毛を飛ばしたタンポポには
もう何にも残っておらず

それを誰かに曝け出すことが
どれほど辛いことであるかを
知っておかなくてはならない

大切なのは相手が飛ばしてくれた綿毛を
一つずつ受け止めて新しい花を咲かせるために
光や水や土を分け合うこと


それこそが「思いやり」であり

正真正銘の優しさであると私は思う


花崎 由佳



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