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たまさか家族/私 (その3 新しい舌の根)

2020年3月からの数ヶ月は、誰しも家族の形を見つめ直す機会があったのではないだろうか。コロナ危機の下でのステイホーム/自宅蟄居は、私にとって自分という個人の存在と家族について思いを巡らす期間であった。
折しも2020年の暮れ、私の暮らすドイツでは、ロックダウン下のクリスマスを過ごしている。
コロナに明け暮れた今年に見た3人の美術作家の作品から汲まれたものが、日頃から自身と家族について思うところと重なったので、言葉にしてみた。そのに続き、その3は田中功起さんの《可傷的な歴史(ロードムービー) / Vulnerable Histories (A Road Movie) 。(その4は同じく田中功起さんの《 抽象・家族 / Abstracted/ Family 》

《可傷的な歴史(ロードムービー)》は、2018年にスイス、チューリッヒのミグロ美術館で発表された作品。私は、2020年5月コロナ禍によるロックダウン中に田中さんが行った、劇場版のストリーミングによって、自宅にて鑑賞した。

日本で生まれ育った在日コリアン3世のウヒという女性と、スイスで生まれ育ったクリスチャンという男性が東京で出会い、荒川や川崎を訪れて、在日コリアンに対する差別行為を紐解きながら、同時に二人の生い立ちも語られる。二人が出会うという設定は制作者の田中さんによるものだが、語られる言葉は出演者自身の口から出たもので、フィクションとドキュメンタリーの間を行き来するようなつくりになっている。

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東京で生まれ育ったウヒさんは、子供の頃から朝鮮学校で教育を受け、韓国人が留学してくる中学高校時代に、自分の話す「在日コリアン語」と韓国人の友人たちの話す「生の韓国語」に齟齬を見出し、自分の発話自体に戸惑いを持つようになる。一方で、アメリカに渡った伯母を訪問することを通して、10代の初め頃から英語を話す。
一方のクリスチャンさんは、スイスに移住した日系アメリカ人の母親とスイス人の父親の元にスイスで生まれ育ち、アメリカのパスポートとアジア系の外見を持ちながら、日本やアメリカとの関係は薄く、自身を「ヨーロッパ人だと思う。それ以外のアイデンティティはない」と言い切る。
このように二人のいわゆる「自らのルーツ」への態度は異なる。それでも、二人の対話は、過去の朝鮮人虐殺の歴史や最近のヘイトスピーチ解消法の成立などの学びを通して、ゆるやかに寄り添い始める。

現代のアートの作品は、表現が抽象化されていて、主題が普遍化されることが多い。ところが、この《可傷的な歴史》は、個人の家族の歴史という何物にも代えがたい固有のものを、登場人物に作品の中で提示することを求め、さらに掘り下げる機会を与える。
「個人の歴史」という生々しいものに、人工的な設定を与えるーつまり登場人物は、作品に出演するという設定を通して新しい経験を生きているーことが、私たちをどこへ導くのだろうか?

疑問を持ちながら最後まで見ていると、制作者の田中功起さん自身が登場する。バーのカウンターの中に立ち、自分自身がカウンターに座って登場人物と共に杯を交わしながら語っている。
ここでようやく意図がわかったような気がした。
そうか、功起さんは、バーの中で私たちが語り出すのを待っているんだ。

いろんな設定、機会、問いを投げかけながらーこんなところで育ってこんな風に思い、考えている人もいるけど、あなたはどうなのか、と。

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自分のことを書くのは気が引けるが、それでも私自身のことを書かなければ、と思った。
ウヒさんが、在日コリアン語、現地韓国語、日本語、英語、のなかで揺れ動いていたように、私と私の家族も言語にまつわる色々がある。

2020年も暮れかかる今、私はドイツに住んで2年余りになる。
私たち家族は、日本で生まれ育ち韓国語を話さない(元)在日コリアン3世の私と、ドイツ語を母語とするスイス人の夫がフランスで出会って、イギリスで始まった。ロンドンに程近い大学都市で子供達が生まれ育ち、11歳の息子と9歳の娘がいる。

家庭内では、日本語とドイツ語、そして英語とフランス語とが混じったような形で会話をしている。子供達は生まれたときから父親とドイツ語で会話して来たので、イギリスから移住してからもドイツの現地校へ行き、すぐに馴染んでいった。ところが、問題は私だ。こちらに来てから意気揚々とドイツ語の学習を始めたものの、これが全く身に入らない。

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「舌の根が乾かぬうちに」という言葉があるが、9年間のイギリス暮らしでせっかく生えてきた(ように感じた)私の短い「英語の舌の根」が乾くのが怖くて、ドイツ語の教本から目をそらしては、もっぱら英語の新聞を読む毎日だ。

実はイギリスで暮らし始めた11年前もそうだった。その時はフランスで大学院に行っていた最中だけあって、「フランス語の舌の根」ごと移住したようなもので、英語を話すのは億劫で、市中の早口でまくし立てられる英語は全く耳に入ってこなかった。
私の喉の奥に英語の舌の根が生えてきてたのは、幼い子供達を連れて歌のグループに行ったり、少しずつ子育て仲間、友達をつくり、イギリス人達のコミュニティの中に入っていく過程であったように思う。仲間たちと喜び、怒り、笑いを共有する中で、自然と英語が口をついて出るようになってきたのだった。

子供達が生まれてから9年間はイギリスにいたので、子供達は簡単な受け答えは日本語でできても、学校で学び友達と話す英語を、母語として育ち始めていた。この子達は、外国人の両親から生まれたイギリス人として成長するんだろうな、とぼんやり考えていた。日本語は、ようやく平仮名とカタカナといくつかの漢字を読める程度。それで十分だった。むしろ子供達が大きくなったら、ちゃんと英語で議論できるようにならなければーという思いも手伝い、私も英語での受け答えが体に馴染むようになってきていた。

それがドイツに移ってから、子供達は急速に現地の子供たちと混じり合い、ドイツ語が彼らの中心を占めるようになる。父親に対して英語を話さなくなってきた時に、「この子達はドイツ人になっていくのか」と衝撃を覚えた。

そして母親の私だけがドイツ語を解さず、家庭内置いてきぼりになった感が隠せなくなった頃ードイツに移って3ヶ月目くらいだろうか、意を決して日本語補習校なるものの門を叩いた。

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義務教育ではないのにわざわざ土曜日に学校へやるのは正直いって抵抗がある。子供達の言語環境を人工的に用意することによって、子供達に「日本文化への誇り」を植え付けるつもりも毛頭ない。
ただ、イギリスにいた時と比べるとここ北ドイツの地方都市では、我が家のように複数のルーツを持つ子供は、若干目立ち気味だ。もしや将来に子供達がルーツに関する悩みを抱えた時に、少しは自分と境遇の似た仲間がいると助かるのではないか、という気持ちが後押しした。私自身が思春期に人生の中でたまたま出会ったいわゆる「在日仲間」と話せた時に、少し肩の荷が降りたように。
そこに、すこしは私の話す言葉を理解してほしい、というささやかな望みも伴った。実際、我が子と「ことば」や「うた」を共有できるということは、親として至福の喜びでもある。

思えば、ドイツに移って来て子供達を図書館に連れていった時、子供達に本を選んであげることのできない、自分の不甲斐なさに涙した。買い物でも時折、子供達に通訳のお世話になる、まさに移民の母の日常である。無論のこと、ホームスクーリングの課題も全くお手上げ。宿題も本人達に任せている。
そこで開き直るのも肩身が狭いので、子供達には「ママもドイツ語を勉強するから、日本語の勉強もしてね」という交換条件で納得してもらっている。

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2020 年の3月上旬を、私達家族は日本で2週間過ごした。ドイツの自宅に帰って来てからすぐコロナ禍によるステイホーム/自宅蟄居が始まり、しばらくの間我が家の会話は、日本語が多く、そして少しずつ英語に侵食されていくような奇妙な環境だった。ステイホームも3週間ほど経過した頃は、ほとんど日本語と英語、少しのドイツ語で話している日々があった。ドイツ語を解さない私は、2年前のイギリスでの生活を取り戻したかのように、喜びを噛み締めていた。
コロナ禍によって、家にいること、移動と接触の自由を奪われることによって、我が家というバブルの中に、私達だけの自由な会話空間が生まれた。日本語、ドイツ語、英語とそれぞれ母語が異なる私たちが、たまたまここに一緒に暮らしていることの不思議な巡り合わせ。

とはいえ、夏休みを終えて通常に近い状態で学校が始まるにつれて、子供達はまたドイツ語中心の生活に戻った。これからおそらくドイツ語を中心に学び、それが彼らの母語となっていくのだろうか。上の子はいまだに英語で話すのもドイツ語と同じくらい気が楽で、むしろ英語で話すときはリラックスしているすらように見えるが、これからはどうなるだろう。
後々の子供達の耳に、私の話す言葉ー日本語と崩れた英語のミックスーは、どのように響くのだろうか。作家の温又柔さんは、「日本語と北京語、台湾語のちゃんぽん」で話す母の言葉を指して、愛情を込めて「ママ語」と呼ぶ。はたして私の子供達はどうだろうか。
私が成人してから母と交わしたような、人生にまつわる様々な思いを、果たして10年後の私は、この子達と交わすことができるのだろうか。

そして子供達の喉の奥には、将来どんな言葉が生えつくのだろうか。二枚でも三枚でも、いろんな言葉の舌が生えてくるといいーと思って、今日もせっせと水をやる。いち、にい、さん、ひとつ、ふたつ、みっつ、としつこく数えてみる。

そんな私の舌は、いまだに耳慣れないドイツ語を拒絶する。発言したい時にそれができないもどかしさは、かつてフランス語で文章を書いていた時に、喉の奥から血を吐くように言葉を絞り出していた時間を思い起こさせる。

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映画の中のウヒさんは、アメリカにいる従姉妹に、自分の気持ちの内を届けたい、と英語で語った。作品というフィクショナルな設定を通して、英語で考え、発話することが、彼女の心の言葉を引き出したといえるだろう。

いかなる人生も、フィクションを必要としている。

「あなたはどうなのか」という問いかけは、実は美術作品の持つ根本的な問いかけの一つであり、作品を経験することは、その後の人生をその作品とともに生きることでもある。
私達はこうして力強い作品と出会うことで、すこしずつ自分の生活を、感覚を揺さぶられなられながら生きている。

奇しくもロックダウン中に、自宅からこの作品に出会って、自分と家族の揺れ動く過程を見つめ直す機会となったことを、幸運に思う。

いつか私の喉の奥にもドイツ語の舌の根が生える日がくるのだろうか。
ドイツ語の舌が、私の喉からどこかに向かって枝葉を生やし、かしましく語り出す日を心待ちにしているような気がする。


記 2020年12月24日


*掲載画像は、以下に記した三点を除いて田中功起さんの作品画像です。
©️ Koki Tanaka 無断複製、無断転載を禁じます。
辞書の画像と桜、黄色い小花の画像は、筆者撮影。桜は、筆者の住む街の公園内にある「日本庭園」から。

*田中功起さんの作品の情報は以下の通り:
《可傷的な歴史(ロードムービー)/ Vulnerable histories (A Road Movie) 》2018(ただし、劇場版は2019年)

*劇場版の映画作品の情報は以下の通り:
タイトル:可傷的な歴史(ロードムービー)
2019年/スイス、日本/カラー/71分
監督、プロデューサー、編集:田中功起
出演者:鄭優希、クリスチャン・ホファー
プロジェクトアドバイザー/レクチャラ—|ハン・トンヒョン
レクチャラ—|西崎雅夫(社団法人ほうせんか)
法律アドバイザー|明戸隆浩
事前勉強会レクチャラ—|山本唯人(東京大空襲・戦災資料センター)
撮影監督:青山真也
製作|ミグロ現代美術館
助成|アーツカウンシル東京(公益財団法人 東京都歴史文化財団)

*予告編はこちら:https://vimeo.com/492096416
上映会、ストリーミングの機会があれば、ぜひ見てください。

*田中功起さんのウェブサイト:http://kktnk.com/



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