料理

料理が好きだ。かなり小さい頃から好きだったと思う。「ママレンジ」というおもちゃが流行ってすぐに買ってもらった。本来は、ホットケーキミックスを使って、電熱のクッカーとフライパンでホットケーキを作るものだ。それを使って、近所の空き地や家の庭で摘んできた雑草(できるだけ食べられそうな)を焼いてみたり、椎の実を炒めたり。そのあたりまでは良かったが、最終的にはスライムを焼いてしまって、オシマイにした。

キッチンの電子レンジで、耐熱容器に入れたチーズを溶かして食べるのも好きだった。大体何秒くらいでトロトロになり、さらに何分やると、カリカリになるのか。どちらも美味しくて毎日食べていた。牛乳を温めては、表面にできる膜を、湯葉~とか言いながら大切に食べるためには、コップ1杯に対して何分に設定するとよいのかも覚えていた。

学校から帰ると、夕飯を作る母の横に立って、その日の出来事などを話し続ける子どもだった。その間、あれ取って、これ洗って、から始まり、切ったり、混ぜたり、茹でたり炒めたり。お手伝いというほどではないが、料理はこうして出来上がるというプロセスを毎日眺めていたのは、きっと私の一部になったと思う。

そもそも、食べることが好きなので、食べてみたいものを自分で作りたい、と思ったり、いろいろなお店で口にした味を再現してみたい、というモチベーションが、料理好きに繋がっていることは確かだ。しかし、それは、Doとしての、料理(=cook)することが好きな理由にすぎない。このコロナのパンデミックでStay Home生活になり、さらにはっきりしたことがある。

料理をしていると、その工程にただただ集中し、気が付くと、料理開始以前の思考が完全にストップしている。もちろん、その料理を食べてもらう人のことや、状況、どんなふうに出そうかということは考えるが、仕事や、個人的に思い悩んでいること、嫌な出来事や不安に思っていることなど、通常であれば無意識でも鬱々と考え続けてしまうようなことは、消える。これは、多くの料理好きの人が、料理が好きな理由として気づいていることかもしれない。

なぜそうなるのか?私は、料理がアートだからではないかと思う。どんな材料があるのか?そこから何を作ろうか?誰に食べてもらうのか?それによって、どんなふうにプレゼンテーションして、何を感じてもらいたいか?自分が伝えたいことは何か?これらすべて、アートの創造と同じで、考え始めた時点から、「自分が考えているということ」を感じることを楽しんでいる。Feelとしての、料理(=create)をすることが好きなのではないかと。

そうすると、脳も五感も大忙し。なにか他のことを考えながらなど、出来るわけもなく。自然と、その世界に没頭してしまうのだ。パンデミック以前よりも家にいられる時間が長くなり、一つ一つのことに、ゆっくりと時間がかけられるようになった。材料や調味料自体を作ったり、それをまた違う方法でも作ってみて変化を楽しんだり。買い物に出掛け難い分、お友だちからいただいた野菜や果物などの素材を活かして、計画外の、初めてものを作ってみたり。創作活動が充実している。

このことを文字にして残す時間があることも嬉しい。美味しいな、と言ってもらえるご飯を作ろう!


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