見出し画像

【ゆる批評】『火花』に見る東京

又吉直樹さんの描く東京、の姿がスキだ。
又吉さんは、もともと東京にいた人から見る東京像ではなく、
「よそ者から見た東京」を描くことが天才的にうまいと思う。

芥川賞受賞作品の『火花』は、
スパークスというコンビで活動中の漫才師、徳永が、
先輩漫才師、神谷と出会い、
その人柄やお笑い観に惹かれ、
師弟関係を結んだことから物語が展開していく。

ひたすら自分の「面白い」と思うことを追求し、
世間に迎合するよりも自らの信念と感覚を持って突き進み、
借金のかさんでいく神谷と、
神谷への愛憎入り混じる思いを抱きながら結局は彼を尊敬し、
時には神谷の生活と感覚について諫める徳永の人間関係が
主に会話を通して巧みに描かれている。

この小説は「ものを、ひいては芸術を批評することとは何か」に関する、
鋭い考えが組み込まれている。

と同時に、この小説を一層魅力的にしているのは、
吉祥寺、井の頭公園、池尻大橋といった背景になっている東京の固有の地名と、東京の漠然とした情景である。

初めから終わりまで、この物語を成り立たせている神谷と徳永の会話は、すべてが関西弁で語られ、彼らがよそ者であるということは、
世間から「よそ者」扱いされる売れない芸人の姿とオーバーラップする。

大阪から上京した神谷は、
吉祥寺駅前の大規模なイルミネーションを見て、

「これ、まだ途中やろ?最終的にどうなんのか楽しみやわ」
又吉直樹『火花』

とつぶやく。
神谷にとっての「東京」は、ひいては東京の生活は
未完成なのだ。芸人人生が世間的に見て順風満帆とは言えず(神谷はそれを気にしている素振りはない)、芸人人生に欠ける「何か」が東京にも欠けている、ということなのかもしれない。

私が最も魅力的で、印象的だと感じる『火花』の一節は、
神谷が自分の「面白いと思うモノ」を追求したがために、
お笑いレースで振るわなかったときの、語り手徳永のひとこと。

こんな夜だけは、僕と神谷さんさえも相容れない。東京には、全員他人の夜がある。 又吉直樹『火花』

「全員他人の夜がある。」
まさしく、東京という街の性質を表している。
多くのフィクションにおいて、もちろん現実においても、
大抵他の土地から自らの意思によって東京に出てくる人は、大なり小なり夢を持っている。
東京でしか実現できない夢だから、東京に来るのだ。
そこに密集する人的資源、機関、会社。
そういう舞台に加わろうと東京に来る。

だから、当然受け入れられないこともある。
自分が加わろうとしているものに、リジェクトされてしまうことがある。
そんな時、故郷を離れているという意識が拍車をかけて、
「東京」を「他人」に感じてしまうのだろう。
(こーいうのは、説明してしまうと陳腐なのかもしれないけど。)

又吉さんのエッセイ、『東京百景』は、
マンスリーよしもと掲載中から読んでいた。
中学の時だったので、まだ東京の地名はわからなかったが、
ユーモアの中に東京という都市の厳しさが見えた。

そういえば、『火花」の中でまさに徳永にとって「神」的存在、
崇拝対象ですらある神谷のコンビ名が「あほんだら」なのは、
まさにこの東京との不調和、非親和性を際立たせる。

関西人でも使う人は稀なんじゃないか、と思うようなどぎつい表現。
この名前を掲げて(本人は、そんなつもりはなく、名前を付けるのが苦手なため、父親が自分を呼ぶ名前としているが。)東京で夢を掴もうとするその無謀さは、非現実的で世間とは乖離したネタを追求する神谷の姿と相まる感じがする。

「方言」って、複雑だ。
私も、私自身の方言が大好きだ。(これは、『火花』と関係ないはなしだけど)関西弁と、広島弁と、博多弁を混ぜたみたいな、地元の方言が大好きだけど、それでもやはり東京で、東京の人の前で話すことは気が引ける。

そのくらい、「あほんだら」というコンビ名はアウェーの感覚を生み出しているのだ。(ドラマ版で、「あほんだらの神谷です」という台詞を聞くと笑ってしまった。小説だと脳内でただの自己紹介として処理されるこの台詞は、音声として聞くと、自分自身の特徴を言っているようで面白い。)

『火花』にも『東京百景』にも、
直接東京に負けたとか、拒否されたとか、直接的な描写は出てこないのに、
より間接的な、微々たる東京への「違和感」が、
夢の達成、あるいは諦めることへの葛藤と溶け合っていっている。

#推薦図書
#又吉直樹
#東京
#コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?