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だから、私は時に「対話的であろう」とする自分を手放す。

仕事柄、対話を学ぶ講座とか、対話について考える機会とか、そういったものをつくっている。もちろん、私は「対話」というものが好きだ。

対話は、分野や論者によっても定義は様々だ。例えば、哲学者の中島義道は次のように述べている。

みずからの生きている現実から離れた客観的な言葉の使用はまったく〈対話〉ではない。〈対話〉とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・ 価値観にもとづいて何ごとかを語ることである。

対話研究の第一人者のアイザックスは次のように述べている。

対話とは単に人々がともに話し合うための戦略ではない。人々がともに内省し、思考や行動が生まれる土壌を変えることができる環境を提供する。

私自身、対話というものが実はとても苦手だった。
自分の家族が割と感情を出してコミュニケーションをする人たちだったので(怒りも、悲しみも、喜びも全て)、私から見ればある一定のトーンで、落ち着いて、相手に届くように選び抜かれた言葉を届けられる、ということに最初は違和感を感じていた。

「なんで、こんなことを怒らずに伝えられるの?」
「嫌なことなのに、なんではっきり嫌って言わないのだろう」
「おかしいことは、おかしいって言わないといけないじゃん」

そんなことを思って、過ごしていた。でも、歳を重ねるにつれて、感情を露わにするコミュニケーションスタイルだと、他者とうまくいかない、ということも学んだ。

「そんな言い方だと、怖い」
「強く言われると、何も言われなくなる」
「落ち着いてからじゃないと話せない」

そうか、怖いのか。なるほど、じゃあどういう伝え方だったら、どういうトーンだったら、受け止めてもらえるんだろう。

私は、特に20代前半はそんなことを何度も何度も考えて、練習して、フィードバックしてもらって、必死に努力して、対話というものが身についた人間である。(身についた、と言って良いのかはわからない….)

30歳になって、感情的になることも随分なくなったし、相手が受け取りやすい言葉を選んで届けることも、随分上達したと思う。

それこそ、対話というものを大切にしている、と思う。それは嘘ではない。

でも、ふとした時に自分が「対話的であらねば」という呪縛にかかっていることに気づく。

本当は、「なんでわかってくれないの」「苦しいんだよ」「怖いんだよ」と感情が溢れる自分が露わになる時がある。

そういった時に、私は「対話的であろう」とすると、「◯◯さんも大変だよね。私もこういうことが、不安なんだよね」とか、「私はこういうことが、苦しいって思っているみたいで、それを聞いてどう思う?」とか、自分の感情を言葉に100%乗せられないことがしばしばあった。

とても綺麗で、相手を想う、素晴らしい言葉たち。

一方で、私の感情は、どこか置いてけぼりになっている。そんなことが増えているということに気づいた瞬間があった。

それから、私は「対話が良いよね」とは手放しで言えない。もちろん、好きだし、もっと世の中に広まれば良いと思っているし、対話で救われてきた経験も山ほどある。

それでも、私は、対話的である環境に居心地悪く感じる時もある。ただただ、自分の感情をその場で出す、ということや、自分という存在を一番に優先して、考えてあげること。そういうことが、人にとって必要なこともあると思う。

そのことに気づいてから、「対話的であろう」という気持ちを手放すときは手放そう、と思っている。

それは自分に対してもだし、他人に対しても。「対話的である」コミュニケーションが恐い人だっていると思う。少なくとも、当時の私は恐かった。

感情的な自分が嫌で嫌で、本当に嫌で自分を責め続けたことがあった。

「周囲は、感情をうまくコントロールして、伝えたい言葉を伝えて、誰ともぶつからず、上手くコミュニケーションを取っている。なのに、私はどれだけ頑張っても、周囲と同じようにできない。感情が溢れて、言葉が感情にのってしまう。どうしたらいいんだろう。」

その時に、とある人が、こう伝えてくれた。

「感情を全開にしているゆかさん見てると、ああ、この人は全力で生きているなあって思うんです。」

その言葉を聞いて、初めて感情的な自分を肯定してあげられた記憶がある。


対話は好きだ。大切だ。


だから、私は時に「対話的であろう」とする自分を手放す。

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