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もっと「強く」ではなく、もっと「弱く」あること。


私が大好きな随筆家、若松英輔さんの詩。


もっと強くなりなさい
世間は、きっとそう言うでしょう
でも本当に学ばなくてはならないのは
弱くなること弱くあることなのです

世の多くの人たちが大きな声で笑うときも
声を出さずに泣いている人もいるのです

そんな人にそっとよりそい
だまって横にいられる
そんな人になってください 

若松英輔

この詩を見ると、いつも思い出すエピソードがある。

私は新卒1年目で入った職場が思った以上にうまくいかず、5ヶ月で休職した経験がある。
当時の私は、もちろん社会人スキルも乏しく、正直身勝手な部分もあったと思う。自分の態度や行動をろくに振り返りもせず、棚に上げていたのも事実だ。

しかし、精神的に本当に辛いとき、人はいつもできていることが簡単にできなくなってしまう。当時の私は、朝起きてから涙がずっと止まらず、ご飯を食べても味がしない。仕事に行こうとすると過呼吸になる。そんな毎日だった。

そんな時に私が言われてきたのは、

「甘えているんじゃないの?」
「社会人1年目なんて、みんなそうやって頑張ってるんだよ」
「今、頑張らないと、後が辛くなるよ」
「君には期待していたのに」
「これだけ時間を割いて、話を聞いてきたのに、結局逃げるんだね」

その言葉が耳から目から入るたびに、吐き気に襲われ、自分をどんどん責めていった。

「当たり前のことができない、私が悪いんだ」

そんな中、ひとりだけ、こんなメッセージを送ってくれた先輩がいた。

「原田さん、休職ってつらいよね。僕も実は前に休職した経験があるから、つらさはわかるつもり。今はゆっくり休んだら良いと思う。無理せずね。」

このメッセージを見た時、「ああ、休んでも良いんだ。あんなに頑張っている先輩でも、休んだことがあるんだ。」と心底ほっとしたのを覚えている。
それを知れただけで、当時の私はどれほど救われたか。
この時、社会人になって初めての人に寄り添ってもらう、という経験だった。

と同時に、私は気づいたことがあった。
「弱さ」というものは、人を救う力がある。

社会人1年目の当時の私は間違いなく、弱かった。
周りができている当たり前のことができなかったし、人から強い言葉を言われても言い返せず、全て受け止めて傷ついていた。「なにくそ!」と跳ね返せる力なんてなかった。

そんな私に声をかけて救ってくれたのは、私と同じ「弱さ」を持っている先輩だった。きっと、先輩もみんなが当たり前のようにできていることができなくて、悔しい思いをしたんだと思う。

もう5年ほど前の話だから、今の私は成長して強くなったと思う。感情だってメンタルだってある程度自分でコントロールができるし、日常的に落ち込むこともそんなにない。
けれど、この経験があってから、私はあえて自分が「弱くあること」を意識することがある。

例えば。
仲間に仕事を頼んだ時に、珍しくミスが多かったとき。
会議中に、一言も発言せずに黙っている人がいるとき。
プロジェクトメンバーとの会議で、いつもと雰囲気が違うと感じたとき。
いつもはドタキャンしないメンバーが、体調不良でドタキャンをしたとき。

自分が弱くあることを意識していると、こういった周囲の人の小さな変化に敏感になる。

と同時に、気づいた時に、声をかけるようにしている。

「今日、元気なさそうだったけど、なんかあった?」

こういう話をすると「優しいね」と言われるのだけど、私はただ単に「優しい世界」を作りたい訳ではなくて、人は本当に、小さなきっかけで簡単に壊れてしまうことを知っているから、その視点を忘れたくないんだと思う。
思っているより人は、きっと強くない。強そうに見えるあの人だって、決して涙を見せないあの人だって、強くあらねばと、みんなが戦っているだけだと思っている。みんな、頑張っている。

もし、私が強靭なメンタルの持ち主だったら。
休むことも知らず、傷つくことも知らず、めちゃくちゃ強いスーパーウーマンだったら。
それはそれで面白そうだけど、きっと今の私はいないんだろうなと思う。

弱いからこそ、人の痛みがわかるってことは、きっとある。
弱いからこそ、傷ついている人がどんな言葉を求めているかも、きっとわかる。

弱いからこそ、弱い人の力になれることが、絶対にある。

もちろん、強いことがいけない訳ではないし、強い人のことも尊敬している。
もっと理想だなと思うのは、強い人が弱い人のことを想像できること。
そしてそれに加えて、忘れちゃいけないのは、弱い人も、「弱い」ということを武器にしすぎない、ということ。

「強い」も「弱い」もどちらも正義を振りかざしすぎないこと。

それぞれの人が、それぞれ生きてきた道があって、それぞれの「正しさ」を持っている。どれが正解、どれが間違い、ということはなくて。

そのことを理解した上で、私自身は「もっと弱くあること」を大切にしていきたいと考えている。

私が考える「もっと弱くあること」とは、これからの人生で起こる様々な出来事に対して、誤魔化さずに感情を動かして受け止めて、結果、傷ついたとしても自分が傷ついたことを慈しんであげる、ということ。

ちなみに、「傷つく」という事象を考える上で、臨床心理学者のアルバートエリスの「ABC理論」というものを私はよく参考にする。
ABC理論とは、図にするとこんな感じ。

A【Activating events】出来事
   B【Belief】思考・信念・考え方
 C【Consequences】感情・行動

エリスが言っているのは、出来事があなたを傷つけているのではなく、あなたのBelief(受け取り方、感じ方)があなたを傷つけているのですよ、ってこと。

全く同じ出来事を経験しても、ある人は激しく凹み、ある人は喜ぶ、というような違いは、個人のBelief(受け取り方、感じ方)からきている、と考えられる。

つまり、Belief(受け取り方、感じ方)はその人が育ってきた家庭環境であったり、これまでの経験の積み重ねからきているということ。それこそ、訓練すれば、自分を苦しめるBelief(受け取り方、感じ方)を適切なものに変える(視点を変える/新しい考えを持つ)アプローチも可能といわれている。

ただ、私が大切だと考えているのは、訓練とか適切かとかは一旦横に置いておいて、出来事に対して一番に浮かんだ自分のBelief(受け取り方、感じ方)をまずは評価なしに受け止めてあげること。


そもそも傷つきやすい人というのは、このBelief(受け取り方、感じ方)の部分が人よりも少し過剰であることが多いと思う。
私もどちらかというとBelief(受け取り方、感じ方)に難があったと自覚があり、3年程訓練して過剰なBelief(受け取り方、感じ方)に気づいて、適切なBelief(受け取り方、感じ方)に変えられるようになったタイプ。

だけど、自分に難があったからこそ、過剰なBelief(受け取り方、感じ方)を持っている人の気持ちがわかる。
なんで、そこまで考えちゃうかなあってやつ。わかるなあ。そこまで考えちゃうんだよね。うんうん。

そうやって自分のありのままの「傷つく」を重ねていった先に、人に対しての優しさとか思いやりがより生まれるような気もしているから、過剰なBelief(受け取り方、感じ方)はそんなに悪くないとも思っている。


例えば、誰かの笑顔の裏にある悲しみが、わかるようになったり。
今のあの人の言い方に、きっと傷ついた人いるだろうなあ、とか。

少なくともそういうことに敏感な自分でいたいな、と思いながら日々を過ごしている。


「弱くある」という生き方を、時にあえて選択して生きていくこと。
「強く生きねばならぬ」と思わざるを得ないこんな世の中だからこそ、忘れずに。

私は自分の弱さも、人の弱さもめいっぱい、慈しんでいきたい。







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