見出し画像

<閑話休題>読経する意味?目的?

 読経することは、極楽浄土へ往くために行うことと浄土宗では理解されている。つまり、極楽浄土へ往きたければ、それだけ多くの読経・声聞を行えば良いことになる。ところが、私が最近思うのは、そうした未来に向けての読経ではなく、過去に向けての読経があるのではないかということだ。
 
 最近、良く頭に浮かんでくるのは、これまで自分のしてきた間違い、他人への迷惑、恥ずかしい行為などの過誤の全てを、今から清算することはできないかということだ。それは、過去へ戻ってやり直したいという気持ちにつながるものだが、自分の利益のためだけに過去へ戻るのではなく、自分の犯した過ちを訂正したいと思う気持ちの方が強い。つまり反省とその修復という概念だ。
 
 こうして反省し、修復することは、もし対象となる人が今も存命であれば、なにがしかのお返しをすることで少しは埋め合わせできると思うが、そうでない場合や瞬時に終わってしまった出来事に対しては、どうやってもやり直しはできないから、反省はできても修復することは出来ない。また、仮にその対象者にお返しができたとしても、何をいまさらということで意味をなさないばかりか、かえって相手を怒らせてしまう危険すらある。
 
 そのため、自己満足でしかない行為ではあるが、もしもそうした過誤を清算するために読経を使えるのなら、自分の犯した過誤の一つ一つに対して懺悔するような気持で読経していけば良いのではないかと考えた。もちろん、この読経によって自分の過誤が歴史から消えさるわけではないが、少なくとも自分の後悔する一方だった気持ちの整理にはなるし、何もしないよりはましだろう。
 
 と、ここまで考えたら、この読経する行為は自己満足である以上に、過誤に関係した対象者を慰撫するものでは当然なく、過誤をした自分自身を慰撫するだけの、実に自分勝手なものであることと気づいた。果たして、こんなことでは読経の意味合いはどんどんと薄れていってしまう。
 
 結局、自分のために、自己満足として、読経することだけが残る。では、死者を彼岸へ送る読経や、成仏を願う読経はどうなるのだろう。これは他者に向けて行なう読経ではあるが、やはり自分自身に向けて行なう読経なのではないか?
 
 ところで、ダンテの『神曲』によれば、煉獄で苦闘している人たちが天国へ往くためには、現世にいるその人の縁故者たちが、その人のために一所懸命に祈りを捧げることが、その人が天国へ往く助けになるとしている。そのため、死んだ者に対して祈りを捧げる行為は、死んだ者がもし天国に往けずに苦しんでいるのなら、それを大いに助ける行為になるのだから、現世にいる者の祈る行為は重要となるし、他者のために行う行為という意味を持ってくる。
 
 もしこれが仏教でも同じであれば、読経することは自分のためだけではないことになる。死者を供養する他、自分が過誤を与えてしまった他者に対して、慰撫する意味合いを持てることになる。そうであれば、読経は自己満足という否定的な状況から抜け出せるだろう。そして、そう思って読経することが何よりも重要なのではないか。つまり、自己満足と批判されたとしても、自分自身としては他者のために読経するという強い意識を持つことが必要なのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?