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<書評>『呪われた部分』

『呪われた部分 La Part Maudite』 ジョルジュ・バタイユ George Bataille著 生田耕作訳 二見書房 1973年 原著は1949年発行

『呪われた部分』

 哲学者・思想家であるジョルジュ・バタイユが、経済学に関する論考をまとめたもの。ただし、それは通常の経済学的アプローチではなく、バタイユが得意とする哲学的・文学的・神話的なアプローチから論じたものとなっているため、経済学の本によくあるような数式や資料をもとに論述したものではなく、バタイユの純粋な思考の経緯を記録した極めて文学的色彩の強いものとなっている。またその背景には、現代経済学に対する哲学的な観点からの強い批判が感じられる。

 また本書は、最初から一冊の著作として系統的に記述されたものではなく、バタイユがその時々に雑誌などに寄稿した論考をまとめたものである。そのため、第一部「基礎理論」はかなりまとまった論考となっているが、第二部以降の「歴史的資料」は、ポトラッチ・イスラム社会・ラマ教の文化人類学的考察、資本主義と宗教改革、ブルジョアの経済、(第二次大戦直後の)ソヴィエト経済、(第二次大戦後のアメリカ主導の経済再生のための)マーシャル計画に対する、批判的かつ歴史的考察といった時事放談的なものを掲載している。また、最後の「消費の概念」は、それまでに論述した内容や概念を踏まえてはいるが、極めて哲学的かつ独自の思考を述べているため、私にとっては容易に理解できる内容としては読めなかった。

 そうした中でバタイユが繰り返し述べていること(論点)は、人類は過剰を生産し続けており、これを浪費することが、人類の経済を構成する主要概念だということである。その浪費の好例がポトラッチであり、また究極の形が戦争であると述べている。そして、(人命を失う犠牲が大きい)戦争を無くすためには、戦争以外の浪費の方法を取るべきであり、そのための経済の仕組みを構築したいと言っているかに思える(注:私には明確な論旨を読み取ることはできなかったが、なんとかまとめるとこういうことになると思う。)

 上記の論旨とは直接関係しないものが多いが、私が「これは使える!」と思った箇所がいくつかあったので、以下に紹介したい。また(注)及び(個人的な感想)として、私なりの見解を付けてみた。

P.122-123
・・・騎士道制度はイスラム世界とは甚だ無縁なものであるが、その騎士道ともまたたいそう異なったわれわれの騎士道的「宗教」のうちに、アラブの影響が認められるのは興味深い。騎士道的という表現自体も、十字軍の時代に、詩的な、情熱の価値と結びついた新たな意味を帯びるに至ったのだ。十二世紀西洋における、騎士授爵(ナイト)の典礼定式書に関する通俗的解釈はイスラム的であった。
(注:きわめてヨーロッパ的と思われる騎士道というものが、実はアラブ文化の影響に成立しているという指摘が、かなり興味深い。)

P.160
 経済のこのような宗教的限定は驚くに当たらない。それどころかこれは宗教の特質ですらある。宗教とは過剰資産の消費に対して社会与える認可(agrement注:フランス語。英語ではagreement)である。
(注:宗教もひとつの経済の形として、人類が生産する過剰を浪費する有効な手段であった。)

P.178
 それは教会の建立が、利用可能な労働の有益な使用ではなく、その蕩尽、すなわちその有用性の破壊であるからだ。・・・資本主義ブルジョア階級は教会の建立を背面に斥け、それよりも工場のそれを好んだ。
(注:前項の続きになるが、教会が浪費してきた過剰を受け継いだのが、資本家による工場であり、工場の設立とモノの生産は、過剰を浪費する手段である。)

P.183
 資本主義とはある意味でものへの無制限な、ただし結果を顧慮せず、また遠くをまったく見越さない、一種の盲従であるといえるだろう。資本主義一般にとって、もの(生産物および生産行為)とは、清教徒の場合と異なり、自らがそれになる、またならんと欲するところのものではない。そのなかにものがあるとしても、それ自体がものであるとしても、それは悪魔が、気づかぬうちに、人の魂に乗り移っていたり、取り憑かれた人間が、自分では知らずに、悪魔そのものになってしまっているようなものである。
(注:過剰を浪費するための資本主義思想だが、モノに対する盲従により、教会が対立概念として作った「悪魔」のように、浪費を制限することになっている。)

P.200-201
 現在のソヴィエト連邦にとっての最も厄介な問題のひとつは、社会主義がそこで帯びた国家的性格に係わっている。ずいぶん以前からヒットラー的自称社会主義のいくつかの外的特徴とスターリン的社会主義のそれとの類似が言われてきた。主席、単一政党、軍隊の重要性、青少年の組織化、個人的思想の否定および粛清。その目標も、社会および経済の構造も根本的に異なっており、それらが双方の組織をあくまでも対立させているが、しかしこのような手段の類似は著しかった。
(個人的な感想:ナチス党の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」であり、言葉通りにとれば社会主義政党である。そして、ナチスが行ったドイツ経済隆盛のための政策は、革命後のソ連が行った経済政策と、国が統制する全体主義=国民総動員政策という観点から共通する。一方、ナチスはソ連と関連する共産主義者を弾圧したが、それは政治的経済的主張が正反対であることが理由ではなく、内実は「内ゲバ」という同じ政治思想における凄惨な派閥争いではなかったのか?と、このバタイユの論点から想起してしまう。)

P.278-8
 人間による人間の搾取がまだ微弱な未開社会において、人間活動の産物が富裕者のところに集積するわけは、ただ単に彼らが社会の保護と指導に奉仕すると見なされているためだけではなく、集合体の催しの出費を彼らが負担せねばならないからでもある。いわゆる文明社会において、富の受け持つ義務が消滅したのは、比較的最近のことにすぎない。古代ローマの富裕者たちが義務的に費用を負担しなければならなかった競技や祭礼は異教の衰頽に伴って廃れた。いきおいキリスト教が所有を個人化し、所有者にその収益の全面的処分権を与え、その社会的役割を撤廃したという見方も成り立つ。少なくとも義務的なかたちでのその役割を廃止したことになる。というのは異教徒間に見られる慣習によって定められた消費に代えて、富者から貧者に分配するかたちや、とりわけ教会への、また後には修道院への莫大な贈与のかたちで、キリスト教は自由な喜捨を設けたからだ。そしてこれら教会や修道院がまさしく、中世においては、催し物の運営をほとんど一手に引き受けていたのである。
(注:上記P.160に共通するものとして、教会の浪費への関係を述べている。そして、キリスト教が支配する以前のローマ時代は、富者が貧者のために公共事業の負担、祭礼や競技会の開催などの浪費を行う義務を負い、それを実施してきたからこそ、浪費がうまく機能したと述べている。)

 一方、こうした教会や修道院が衰頽した現在においては、浪費を担うのは資本家たちであるが、そうした浪費という意識が十分に機能していないと見るのが、バタイユの主張なのだろう。この概念を単純に 演繹すれば、二十一世紀の現在において、世界各地で行われるポピュラー音楽の大イベントやオリンピックやサッカーに代表されるスポーツイベント(さらにTVや劇場及びインターネットで提供される各種の娯楽も含まれるだろう)は、まさに浪費のための有効な手段となる。しかし、バタイユの論点に忠実に従えば、これらの大イベントを貧者に対して有料で行う(つまり、富者がより富を増す=モノを多く所有する)ことを目的とするのは、適切な浪費の姿として認められないという結論に至る。

 バタイユとしては、現代のローマ皇帝あるいは中世のローマ教皇に相当する富者たちは、貧者に対して無償で大イベントを提供すべきであり、そうした浪費を繰り返すことによって、人類が意識せずに生産してしまう過剰をうまく消費することにつながり、ひいては(浪費の最大かつ有効な手段としての)戦争が発生することへの回避につながるというのではないだろか。いうなれば、ローマ時代を揶揄する標語である「パンとサーカス」のサーカスを、現代の「皇帝たち」がやるべしということなのだ。


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