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<書評・芸術一般>『デュシャンの世界』芸術とは生きること

 『デュシャンの世界 Entretiens avec Marcel Duchamp(フランス語原題を直訳すれば、「デュシャンとの談話」)』Marcel Duchamp マルセル・デュシャン、 Pierre Cabanne ピエール・カバンヌ、Pierre Belfond ピエール・ベルフォン 1967年 Paris パリ。日本語版は、岩佐鉄男及び小林康夫訳 朝日出版社1978年。

『デュシャンの世界』

 20世紀最高の芸術家、20世紀美術界の不世出の革新者、「レディメイド」及び「オブジェ」概念の発明者であるマルセル・デュシャンに、美術評論家のピエール・カバンヌがインタビューした記録。生涯の大半を寡黙かつ世捨て人のような生活をしてきたデュシャンに関する唯一かつ貴重なインタビュー記録である。

 最近は美術の世界も時計が逆戻りしたようで、20世紀初頭に出現したフォービズム、キュービズム、シュールレアリズム、マニエリスム、アクションペインティング、ポップ、そしてデュシャンのレディメイド(既製品)を利用したオブジェなどの、我々の美的感性と世界認識を一新してくれるような斬新な美術は見られなくなっている。そして、まるで印象派の時代に逆戻りしたような絵画作品や、写実を高度にしたハイパーリアリズムの絵画作品が人気になっているのは、誠に物足りないと言わざるを得ない。

 20世紀初頭の世界には、哲学では現象学や実存主義が、科学では相対性理論と量子力学が、音楽では多音階や12音階主義がそれぞれ出現するなど、美術界以上に刺激的な出来事に満ち満ちていたが、短期間に続けて起きた世界戦争と二発の核爆弾によって、文字通りに世界は破壊された。一方、北極と南極は未知の世界ではなくなり、エベレストは登頂され、最も深い海が測量され、最後に1968年のアポロ11号による人類の月面到達によって、人類の探検は盛大なフィナーレを迎えた。

 波乱の20世紀が終わり、前世紀の人類が勝手に進化・進歩を期待した21世紀に入った現在では、科学は想定通りに進化したが、哲学と音楽は停滞し、美術では過去の遺産の焼き直しを繰り返す矮小な作品を、新たな刺激に対して不感症になってしまった大衆が、芸術ではなく単なる経済の一商品としてもてあそぶものに堕落してしまっている。芸術家が、自らの信念やイメージに沿わない作品を、ただ金のためだけに創作することは、デュシャンに言わせれば、冒涜以外のなにものでもないだろう。

 こうした現状を見る限りは、もう人類の芸術的な想像力は枯渇してしまったように見える。これまで誰もが発想できなかった、20世紀初頭に続出した斬新な発明や発見はもう出てこないのだろうか。もしもそうであるなら、人類の進化、少なくとも現生種としての人類の進化は停止したと言っても過言ではない。

 そうした停滞している現状だからこそ、デュシャンの衝撃的な破壊力が、今こそ真の威力を発揮するのではないか。わかりやすいもの、心地よいもの、簡単なもの、時間が短いもの、そうしたものを安易に求めているようでは、人類はただ退化するだけではないだろうか。それは、水が入った鍋に入れられたカエルが、熱湯になって動けなくなるまで火がついていることに気づかないのに、どこか似ている。

 ところで、本書を読んでいて面白かったのは、デュシャンがW.C.アレンズバーグやキャサリン・ドライヤーというアメリカの金持ちの子供たちにサポートされていたことだ。これをデュシャン自身は、近世以前の王侯貴族が芸術家をサポートしていたのと同じだと述べているが、彼らがいなければ、偉大にデュシャンという存在が出現しなかったのだから、その貢献に感謝したい。なおデュシャンは、絵画を売って生活するという芸術家は、芸術本来の在り方ではなく、貴族や金持ちに寄生して生活するのが本来の芸術家だとさえ言っている。たしかに、芸術家が経営者や画商になったら、それはもう芸術家とは言えないのだ。

 それはまた、20世紀のスターだったダリやピカソのように、自らの作品を売って大金持ちになるのは、いわゆる商業主義に堕した姿であって、芸術家とは自らの生活費を自分で稼がず、ただ芸術のためだけに生きる人種だという意味だろう。これは正論だと思う。なぜなら、芸術とはもともと有用とか価値とか市場価格とか生産性とか、そういった物欲の類とは正反対のものだからだ。芸術は、無用で、無価値で、市場価格の対象にならず、非生産的なものなのだ。作品の良し悪しを金額で判断することほど、芸術を冒涜していることはないのだ。

 上述の観点を踏まえた本書のデュシャンの発言のうちで、特に興味を惹かれた部分を抜粋する。また、金言とも言うべき部分を太字で強調した。これを読むだけで、デュシャンの人間像が垣間見られるだろう。

P.130
カバンヌ:『モナリザ』はピカビアの手もとにあったはずです。彼は1930年3月の(雑誌)『391』にその複製をのせています。

デュシャン:正確にはその通りではありません。私は自分の荷物の中にいれるために『モナリザ』を持って行きました。そしてピカビアはそれを利用して、『391』に発表したのです。彼は自分で複製をつくりました。でも、口髭はつけたけれど、山羊髭の方は忘れてしまった。それが違いです。しばしばピカビアの『モナリザ』が私のものとして複製されたりしていますが。彼はそれを『マルセル・デュシャンのダダ絵』と呼んでいました。

P.141-142
デュシャン ・・・私は絵画は死ぬものだと思っています。おわかりでしょう。タブローは40年か50年もすると、その新鮮さを失って死んでしまいます。彫刻だって同じでしょう。これは私のちょっとした十八番で、誰も認めてくれないのですが、そんなことはかまいません。私は、タブローはそれをつくった人間と同様、何年かたてば死ぬのだと考えています。それから、それは芸術史と呼ばれるようになるのです。・・・私にとって芸術史とは、美術館に残されたある時代のもののことです。しかしそれは必ずしもその時代の最良のものとはかぎりませんし、実際にはおそらくその時代の凡庸さを示すものさえあるでしょう。なぜなら、美しいものは、人びとが保存しようと思わないために、消え去ってしまうからです。

P.153
カバンヌ:あなたが若かった頃には、芸術についての教養を身につけたいという願いはなかったのでしょうか。

デュシャン:おそらく、あったのでしょう。でも、それは取るに足りない欲望でした。仕事をしたいと思っていたのかもしれませんが、私には途方もない怠惰が根底にあるのです。働くことよりも生きること、呼吸することの方が好きなのです。私がしてきた仕事が、将来、社会的な観点からみて、何か重要性を持ちうるとは考えられない。だから、こう言ってよければ、私の芸術とは生きることなのかもしれません。各一瞬、各一回の呼吸が、どこにも描きこまれていず、視覚的でも頭脳的でもない作品になっている。それはある種の恒常的な幸福感です。

P.208
デュシャン:・・・ひとは、それ自体では良くも悪くもないのですが、ある種の自分の趣味の言葉を貯えていて、だからもしあなたが何かを見る場合、それがあなた自身の反映でなければ、あなたはそれを見てすらいないわけです。私は、それでも努力します。常に、少なくとも何か新しいものを見るときは、私のなかにあるそうした知識のようなものを棄てるように努めてきました。

P.221-222
カバンヌ:芸術の進歩をどのように考えていらっしゃいますか。

デュシャン:それが深い意味をもつのかと疑問に思いますから、そんなことは考えません。芸術を発明したのは人間です。人間がいなければ芸術もないでしょう。人間が発明したものはすべて価値などありません。芸術は生物学的な根拠を持っているわけではなく、それはただ趣味に対してあるだけです。

カバンヌ:あなたの考えでは、それに必然性はない?

デュシャン:芸術について語る人たちは、「人間は精神を休めるために芸術を必要とする」とか言って、それを機能的なものにしてしまいました。・・・私たちは、私たちのことを考え、私たち自身の満足のことを考えて、芸術をつくったのです。私たちだけのたったひとつの使い途のためにそれを創造したのです。・・・私は芸術の本質的な側面というのをあまり信じていません。・・・

P.225
カバンヌ:昼間は何をなさっていますか。

デュシャン:何も。せかせかと動きまわっています。いつも約束がありますから。・・・イタリアのあとでは、イギリスに行きました。本当のところ、ここ(パリ)に来てからたいしたことは何もしていません。それに、ここに来たのは、休もうと思ってですから。何もしないくせに休むのです。つまり、ひとはいつでも、ただ存在しているというだけで疲れているのですから。

P.236-238
デュシャン:(10万ドル提示されても作品を作らないという話の続きで)何か意味のあるものをつくろうとする前に、二、三か月よく考えてみなければならないでしょう。単なる印象や愉しみで終わってしまうわけにはいかないでしょうし、ある方向なり意味なりがなければならないでしょう。それだけが、私を導いてくれるものですから。始める前に、この意味や方向を見出さなくてはなりません。・・・

デュシャン:ウィーンの論理学者(ウィトゲンシュタイン)はある大系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解したかぎりでは、すべてはトートロジー(同語反復)、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては定理のなかにあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです。このブラック・コーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。眼がブラック・コーヒーを見ている。感覚器官のコントロールが働いてします。これは真実です。ほかの残りは、いつもトートロジーです。

年度の始まりに触発された追記:
 瀧口修造が翻訳した『マルセル・デュシャン語録』(再販バージョン)についても、掲載する予定です。そして、デュシャン的マインドを持って創作した短編小説・戯曲・散文詩・翻訳小説の他、当note掲載及び未掲載の各種論考(及びエッセイ)をまとめたものを、Amazonから電子書籍(及び製本版)で出版しており、またこれからいくつか出版する予定です。ご関心ある方におかれては、私の創作活動継続のご支援をいただければ幸いです。

『マルセル・デュシャン語録』


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