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<芸術一般>三年目の『ゴドーを待ちながら』――あるペシミティックな芸術限界論――

(注1:もう今から37年前の、まだ20代後半だった頃の心境です。当時の私は、仕事が社会貢献につながるとは考えられませんでした。私にとって最も大切な「自分自身のやりたいこと」を阻害するものだと認識しながら、生活のために止む無くやっているものが仕事でした。その不誠実さを反省することもなく、私はこの考えに従って、定年まで仕事をしました。その好悪について議論することは、既に停止していますので、ここで議論はしません。たとえ議論しても、後ろ向きのトートロジー(同語反復)に陥るだけだと思います。また、現時点で再読して、「美しくない」と思われるところは、加筆・修正しています。)

(注2:『ゴドーを待ちながら』ノーベル賞作家・戯曲家サミュエル・ベケットの代表作。浮浪者風の主人公エストラゴンとヴラジミールの二人が、来るあてのない「ゴドー」なる存在を待っている間の寸劇を、ほぼ同じストリーを繰り返す2幕ものにした現代劇。不条理哲学を反映して、ゴドー=ゴット=神の不在を表現したと多く解説されているが、定説はない。)

 大学を卒業してサラリーマン生活をしていると、おのずと生き残るための何カ条かが出来てしまう。
1.公私・自他ともに、プライベートな問題には一切関与しないこと。
2.仕事は、出来すぎても出来なさすぎてもいけない。特に、自分の上司がどんなに愚かな仕事ぶりであっても、それに従っていくこと。
3.仕事面での問題は、直ちに上司と相談する方が良いが、感情的な側面は全て覆い隠すこと。
等々。

 こうしたことを傍目から見ると、まるで精神的な監獄にでも入れられているように見えるかもしれない。たしかに、監獄でない職場というものは、ほとんど夢のごとくにしか存在しないし、「職場」が「社会」の縮図なら、逆に「社会」こそが監獄と言えるわけで、今更どうのと言えるものでもない。

 では、なぜ、僕を含めて多くの人々は仕事をしてしまうのかと言えば、ひとえに「生きる」ためである。僕が最近格言みたいにして思いついた命題に、「僕たちは、自らの限られた時間と肉体を、『ベニスの商人』のシャイロックのような要求に応えるべく、少しずつ切り売りして、それによって得られた最低限の生活を保障するわずかの報酬により、かろうじて生きているのだ。」というのがある。

 だから、僕たちに生まれながらに与えられた、ささやかな時間と肉体は、日毎に減少しても、増えることはない。そうして、いざこの時間と肉体とによって、自らの存在を賭けた勝負(それがどんなものだか、僕は今もってわからないけど)をする時には、ガソリンの切れた車のように、全然時間と肉体がいうことを聞いてくれなくなっているのだ(注:けっして勝負を賭けてはいないが、定年後の今、私は長年の心身に対する無理な酷使によって健康問題を抱えている)。そうして、ボディーだけでエンジンも何もないからっぽの車みたいに、ただ漫然と動くこともできずに風雨にさらされ、朽ち果てるのを待っているのだ(注:定年後の今、私の心身は、これから長年待ち焦がれた自由な時間と肉体を持てるのにも関わらず、朽ち果てそうな気分にいる。これは仕事を失ったことによる喪失感とは全く異なることを明記したい。私には仕事が無くなる解放感はあっても、喪失感は全くないからだ。しかし、この心身の過労常体からどうやってリカバリーするのか、できるのか、新たな試練が待っている)。

 この状況を『ゴドーを待ちながら』に当てはめるのは、いともたやすいものだ。すなわち、「ゴドー」を待っている主人公二人の姿は、朽ち果てるのを待つサラリーマンであり、たまたま「ゴドー」を待ったために、動くことも諦めることも出来ない姿は、漫然と牢獄暮らしをする姿と似ている。他にもこうした類似はいくらでも見つけられるだろう。

 そして、これもまた「職場」が「社会」の縮図であるのと同様に、『ゴドーを待ちながら』がまた、「社会」を表現し、象徴したものであるからそう読み取るのは当然だ、と言ってしまえる。そうした「縮図」や「象徴」を探すことはいたって簡単であり、たいした発見でもないだろう。つまりは、僕やあなたも彼も彼女も、「ゴドーを待っている」のだ。

 それはまた、ひとえにサミュエル・ベケットの現実把握とその表現が極めて巧妙なことの証拠でもあるが、そうした(文学上の一種)技術的な問題を度外視した領域――なぜだかわからないうちに、人間がもの(作品)を作り表現してしまうこと――のなかに、もはや必然とも言える現実と作品との密接なつながりがあるのだと思う。

 すなわち、どんな作品であれ、人間が作った以上は人間が住む「社会」と共通性のあるものになってしまうということなのだ。例えば、ジョットーやミケランジェロがその宗教性の表現において、この世でない世界(地獄や天国の情景など)を現出し、あの世への法悦を味あわせてくれるとしても、それはあくまでも現実の延長上(つまり、実際にそのものを見た記録ではなく、たんなる推測と想像)でしかない。

 ようするに、実際にあの世から何かしらの力がもたらされて、宗教的・芸術的悦びの境地に至るのではないのだ(注:実際にジョットーやミケランジェロの偉大な作品をイタリアで見られる僥倖を得た現在、この若書きの仮説に疑問を持っている自分がいる。印刷された写真とは異なる実物の持つ力は、まさに想像以上だった。その理由は、作品自体に魅せられた人たち多数の強い気持ちが作品に投影・蓄積されているためではないかとも思うが、もしかすると、優れた作品に対する天上界からの恩寵が本当にあるのかも知れない)。ここに人間の力の限界があり、人間がすること(芸術作品を創造すること)には、全て「社会(現実)」からは抜け出ることが出来ない限界があると言えよう。

 つまり、僕たちには(その芸術作品としての限界を)破ったつもりでも、四方に壁が、それも突き破ることはほとんど不可能な壁が、「社会(現実)」には存在しているのだ。例え自らの現実的・精神的死をもってしても(つまり、あの世に行くこととの引き換えに,なにがしかの芸術的成果を得ること。まるで、悪魔に魂を売るようなものだ)、「社会(現実)」から逃避することは不可能であろう。

 しかし、我々はこの難攻不落な壁を前にして、いったいどうすればよいのだろうか。壁の前で、じっと朽ち果てるのを待つのか。それとも、無意味な突撃を繰り返すのか。この場合の二者択一は、どちらもネガティブ(否定的な)答えしかない命題である。どちらを選択しても、芳しい答えは出てこないだろう。

 そこから得られる結論は、もはや、「生きる(朽ち果てるのを待つ)」ことも、「死ぬ(突撃を繰り返す)」ことも出来ぬ存在。それが、「社会」という両刃の剣を作り上げてしまった人間(「社会」があることで、人は便利で安全な生活を維持しているが、そのためには一定の社会貢献を要求される)の、極限における悪あがきでなくて何であろう、という悲観的なものになる。

 そして、自暴自棄になって「社会」を破壊することは、イコール人間存在の否定につながるのなら、もはや核戦争の恐怖云々といいながら生き残りの道を探る行為よりも、いっそこの破滅の道(「社会」を破壊する)を選ぶ方が、もしかするとよほど賢明だと言えるのではないだろうか。実際、ギリシア神話の中で賢者ケンタウロスは、人にとって最善のことは生まれてこないことであり、次善のことはすぐに死ぬことだと喝破している。

 しかし、悲劇的と承知しながらも、一方ではこの人類世界の絶滅という言葉の響きに、何か宇宙の摂理(神の必然)にも似た安らぎを感じてしまうのは、果たして僕だけだろうか。神が人類世界を構築した後の休息の時(すなわち日曜日の朝だ)に、思わず口に出した言葉を、今や我々もつぶやくのかも知れない。
――やっと、終わった。――

(注3:今この文章を再録してみた読後感は、若いころの自分が大きな悲壮感に包まれていたのだなと言うことです。実際、今も残っている若いころのパスポート用の写真を見ると、どれもみな自信がなく悲しげな顔をしている。少なくとも、就職をして「これからバリバリ働いて、いっぱい稼ぐぞ!」と言った気分は、全く感じられない。まさに、楽園エデンから遠い東に追放されたような気分だったのを覚えています。

 しかしそれは、楽しい学生時代が終わったことの安易な感傷とかではないと敢えて主張します。自分が、サンテグジュペリが『星の王子様』で表現したような大人になってしまうことの、強い悲しみだったと思います。また、その当時はずいぶん先のように感じた定年退職まで、理不尽な指示や意味不明な仕事を耐え忍び継続することへの、大きな不安と韜晦がありました。

 ところで、この悲観的な結論から、楽観的な結論に変わることは出来ないのか?と、今考えています。この文章を書いている間にその回答は浮かばなかったので、たぶん時間がかかることなのでしょう。もし将来、何かしらの「答え」が見つかったら、文章にして掲載したいと思います。)

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