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<書評>『日本人にとっての東洋と西洋』

日本人にとっての東洋と西洋

『日本人にとっての東洋と西洋』 谷川徹三・福田定良著 法政大学出版局 1981年

 日本を代表する哲学者の一人である、谷川徹三と福田定良は、また師と生徒との関係でもある。その二人が、明治以降の日本の教養人にとって避けて通ることのできないテーマである、東洋とは何か、また西洋とは何かについて、お互いの知識を元に討議していった記録である。

 碩学でもある二人が、「自由」、「自然」といった西洋から輸入された言葉と、それに対して苦労して充てた漢字とその語源を含め、西洋に自然科学が発展し、東洋に発展しなかった背景などを探っていく。さらに、東洋的と言われる、「無」や「空」という宗教的な概念の措定、また西洋における「無宗教」という意味は「反キリスト教」であると指摘するなど、我々が何気なく使っている言葉と教養を、再確認するための材料を数多く提示してくれる。

 その中には、当時ようやく見直しが始まった縄文人と弥生人との関係と縄文文化の再評価について、現時点からみれば不十分であると言わざるを得ないものもあるが、その視点そのものはまったく古びていない。何よりも、東洋と西洋という問題は、我々が日本人である以上、そこから逃げることは出来ない課題であるため、常時自らが反省するための基本的事項を教えてくれるものだからだ。

 私は、大学の卒論でサミュエル・ベケットについてまとめたとき、この「東洋と西洋」という概念が、日本にとって、特に日本の思想や文化にとって、どういう影響があり、どのようになっているのかを、根本的に追及しなければならない、という考えに至った。その結果、探し求めたのが本書であったが、結局時間切れ及び大学4年生という限界から、そこまで論文の糧にできずに終わってしまった。

 そして、その後に就職してからは、「仕事が忙しいから」という名目で長年放置していたところ、今は定年退職して時間ができたことから、改めて読み込んでみた。そして、もう40年以上経っているのにもかかわらず、その内容は十分に新鮮であり、また多くの示唆に富んでいることに気づかされた。

 世の中、特に最近はとてつもない速さで新たなものや概念が登場しているように見えるが、これはまさに木を見て森を見ない、あるいは物事の上っ面だけを撫でているだけで、そこに何か新しい真実が発見されたり、あるいはより正しい理論が構築されたりしたことではなく、ただそう思い込んでいる、錯覚しているだけにすぎないように思う。なぜなら、人の考え方などは、そう簡単に変わる、変われるものではないからだ。

 そして、いわゆる古典と言われているものには、今新しいと錯覚しているだけで、実はとっくのとうに人類が考え、そして結論づけていることが豊富にある。つまり、古い世代が既に構築していることを新しい世代が単純に知らない、あるいは忘却しているだけのことが多いのだ。それは、西洋においては「ルネサンス」という形で証明されている上、未だにダンテ『神曲』を越える傑作は歴史に登場していないことが、何よりも良い証拠だろう。

 音楽の世界においてはもっと厳格で、人は既に19世紀末までに優れた音楽は全て完成しつくしてしまった。器楽はベートーベンの交響曲第九番において、声楽はシューベルト『冬の旅』において、その究極に到達してしまった。今行われている音楽は、これらの単なる焼き直し(リピート、もっと言えば盗作)にしか過ぎない。

 従って、この1981年におこなわれた貴重な討論は、今もまったく色あせない上に、ここで提示されたテーマ(テーゼ、命題)は、今現在も真摯な課題として、我々の前に立ちはだかっている。そして、我々はこの日本人にとって、また日本の思想や文化について考究するものすべてにとって、必須となるこれらのテーマ(命題)を、休むことなく考え続けねばならないのだ。そして、その答えは、新しいものではなく、むしろ古いもの、特により古いものから見つかると予感している。

 以下、参考になった事項を箇条書きにしてみた。→以降の文章は、私が気づかされた点を列記した。

1.旧約宗教のヤーウェにしても、その性格が遊牧民族の神であることはたしかですが、イスラエル民族がカナンに定住するにつれて、バールという名で一括されていた神格と混同されるようになる。そのバール信仰のなかには農耕民族の宗教に由来するものがあるわけです。むしろ、イスラエルの律法はかなりな程度で農民的な生活を前提にしたものだと思うのです。だから、ヤーウェという神格の純粋化が預言者の仕事になるわけで、その場合、農耕民族の宗教は消極的な形ではあるが、旧約の宗教に、のちの時代には、キリスト教に影響をあたえているように思います。カトリックの聖母マリヤ崇拝にしても、そうだと思いますね。(P.36)

→和辻哲郎『風土』の影響もあり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、いずれも砂漠で誕生した遊牧民族の宗教だと認識していたが、確かに農耕民族的な側面がない方がおかしいくらいであることに、改めて認識させられた。

2.リバティーというのは「――からの自由」であり、フリーダムというのは「--への自由」あるいは「――になる自由」、こういう区別ができる。しかし同じヨーロッパの言葉でも、フランス語にはリベルテしかなくて、フリーダムに当たる言葉はないし、ドイツ語にはフリーダムに当たるフライハイトだけあってリバティーに当たる言葉がない。これはそれぞれ、そのフランスという国の歴史とその国民性、ドイツという国の歴史とその国民性を現わしているといってもいい。・・・

 日本語じゃ、もちろんこの二つは同じ「自由」という言葉で訳されている。ところが中国に昔からある「自由」という言葉、そしてそれを受け入れた日本の「自由」という言葉の古い用語法を見ると、そのいずれの意味でもないんだね。・・・中国における古いこの言葉の用法は、・・・勝手気ままに振舞うという悪い意味に使われている。・・・

(二番目に)「おのずからそうなる」つまり「自然」という言葉と近い意味もこの言葉の中には古くからある・・・(三番目に)禅宗で使われている意味がある。・・・六祖の『檀経』における「去来自由なり」のその自由を体得している人を自由人と呼んでいるわけで、禅宗の教義におけるような、人間の理想を体現した人物が、自由人と呼ばれている。(P.58)

→私は、三番目の意味で自由人になりたいが、一番目のような非常識な人間にはなりたくない。

3.「太極」という言葉と「無極」という言葉がほぼ同じように使われ、そこからこれが「無」に結びつくんだけれども、宇宙の本体として考えられている「太極」も、どこまでも一つの働きとして、つまり機能概念としてとらえられている。(P.68)

→(手前みそになるが)私の考えた「関係の哲学」に通じるものがある。

4.われわれ(ドイツの労働者)はこういう所(自然豊かな場所)へくると、つまり、都会をはなれて自然の世界にくれば、楽しくなれば歌ったり踊ったりして、いっそう楽しくなろうとする、・・・(日本人は)下手なことをするより、静かにしている方がね、何となく気持ちがひらけてくるような気がするわけです。極端な言い方をすれば、自然に没入するというか、自然と一体になるというか、まあそういう快感ですね。(P.129)

→「自然と一体になる」ことが、私は大悟する意味だと思っているから、ドイツの労働者のようにはなれないし、また元々歌ったり、踊ったりが嫌いだから仕方ない。

5.禅は宗教としては本質的に知識人の宗教であって、日蓮宗や浄土宗・真宗のように大衆をつかむことはできにくい宗教・・・禅を東洋思想のひとつの形態、それも本質的な形態として見ることはできるけれども、宗教としてかなり特殊なものと考えた方がいい・・・(P.144)

→そうなのか、禅は特殊な宗教だと言われれば、その通りだと思うし、大衆に与しない知識人の宗教だと言われれば、その通りだと思う。そして、それで良いと思うし、それだからこそ、私は禅が好きだ。

6.・・・この(ドイツの)お婆さんに、もしセネカが自分だったら、というようなことを言われたとき、また感心して弱っちゃったですね。・・・向こうの哲学はこんな形でも一般の人のなかに根をおろしている・・・(P.176)

→これはクラシック音楽にも当てはまる。ヨーロッパの人たちにとって哲学は身近な存在、大衆的な教養となっているように、クラシック音楽も身近にある大衆的な音楽なのだ。それが、日本では両方ともに、なぜか特別に敷居が高いものにされているのは、実に不憫だ。

7.(福田が行徳の寂しい寺で戦後すぐに住職をしているとき、空腹と無為の中で寝ていたら鼠と目が合ったが、そのまま何もなかったという体験から)・・・そういう境地に君がいると、鼠も人間を怖がらないのじゃないかな。・・・だから昔のそういう聖者に対して野や森のけものも鳥も少しも怖がらないで近づいたり親しんだという話をぼくは信ずるね。聖フランシスコの小鳥への説教もぼくは信ずるね。動物は本能的に人間をよく見分けかぎ分けるからね。(P.233)

→(これも手前みそになるが)最近公園に行くと、野鳥が私から逃げなくなっている。一歩ずつ友達に近づいていると喜んでいる。

8.悲劇というものは偉大な人間の没落だ。だからコメディーという言葉の意味には、悲劇の主人公になるような偉大な人が主人公になっているのではなく、ごく普通の人が主人公になっている劇という意味がある。(P.267)

→「悲劇の主人公」には、偉大な人しかなれないから、新聞の三面記事になるような人は、どうやっても「悲劇の主人公」ではなく、「喜劇の登場人物」でしかない。そして、ダンテが『神曲』の原題を「神の喜劇」とした理由は、登場人物の大半が皆市井の人たちだからだと、改めて理解できた。

 以上のように、私の関心があることや事柄に関係した知識や解説は、全部で8ヶ所あったが、そのいずれからも、本書のテーマである「東洋と西洋とは何か」ということの答えには直接的にはなっていなかった。しかし、将来答えを出すための参考情報になっていた。

 ここから結論を出すとすれば、やはり「東洋と西洋とは何か」というテーマは、日本人、とりわけ日本の教養人・文化人にとっては、答えが出ない永遠のテーマであるとともに、それを追い求めていることが、そのまま日本という極東の小島に生まれた教養人・文化人の役割であると自覚することではないだろうか、と(教養人の末端にいると自負している)私は思う。

 そもそも、「この本を読めば、全てがわかる!」式のものは存在しない。そんなことで「全てがわかる」のであれば、古今東西の碩学による学問の歴史の蓄積は不要となってしまう。様々な書を読む行為は、「全てをわかる」ためではない。「全てがわかる」ためには、より一層の努力と考察が必要だと、読み終わった後に改めて知るためなのだ。世界は、宇宙はとてつもなく広い。それを人が知ることや、理解できることはほんのわずかでしかないのだ。それでも、人は世界と、宇宙を知ろうと努力していく。なぜなら、「そういうように生まれてきた」からなのだ。


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