見出し画像

<書評関連>夢の中でも読書

 昔、学生の頃、ミシェル・フーコー『言葉と物』を、自宅近くの図書館で読んでいた。たぶん季節は春先で、ちょうどアルバイトをしていない「空白の時期」だったと思う。

 読書といっても、こうした哲学書はご承知のとおり難解であり、しかもフランス語原文で読めれば良いのだが、そこまでフランス語能力はないので、翻訳したものを読むことになる。そして、翻訳自体をけなすつもりはないが、特に哲学書の翻訳は非常に難しくて、思想家がフランス語でイメージした単語をそのまま日本語にしても、意味が通じない場合が大半なので、翻訳者は自らの哲学的知識及び漢文の知識を総動員して、適切だと思われる日本語に意訳する。

 そのため、もともと難解な文章が、翻訳によってさらに難解になり、また、そもそも本文の記述だけでは理解できないので、思想家による大量の注釈と翻訳者によるそれ以上の量の注釈がつくことになる。・・・つまり、よく「年間300冊読書します」と自慢している人が読むような、1~2時間で簡単に読み飛ばせるような本とは次元が相当に異なるので、読むこと自体が大変な労力を必要とする。

 だから、私のような修行が足りない凡人は、2時間ぐらい集中しながら読んでいると、自然と眠くなる。そして、気づかないうちに居眠りしている。しかし、居眠りしていることに自分は気づかないばかりか、自分ではそのまま本を読んでいると思い込んでいるから、意識は「読書」モードのままでいる。

 すると、(あとで夢を見ていたとわかるのだが)夢の中で実際の『言葉と物』に書かれている文面の文字を見ながら、なにごともなく読んでいる自分がいる。もちろん、夢の中では夢だと思っていないので、実際に読んでいると信じているのだが、ふとしたことで目が覚めると、さっきまで読んでいたところは、夢の中の文章だったのかと気づく。

 さらに驚くことには、夢の中で読んでいた文章が、まだ読んでいない箇所と文脈が一致していて、さらに思想家が言わんとしていることとも一致していることに気づいて、「さっきの夢はなんだったのか?」、「夢の中で読書ができるのか?」と不思議な気持ちになった。

 それから、もう50年も経った今、再現している(個人の肉体で発生したルネサンス??)。

 今、ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』を読んでいる。想像した以上に注釈は少ない上に、本文の記述が平易なので、原注と訳注の二つの注釈部分にクリップを挟みながら、少しずつ読んでいる。歴史書(歴史哲学)なので、歴史上の多岐にわたる固有名詞さえ理解できれば(例えば、教皇レオ10世・メディチ・フィレンツェ・トスカーナのイメージを共有することなど)、普通の哲学書に比較すればまったく読みやすい。

 しかし、還暦を過ぎた寄る年波に加えて、若いころから少しも進歩していない私は、1時間ほど集中して読むと自然と眠くなってしまう。そこで、別の本、例えばランボー詩集のフランス語原文と英語訳を少し読んで気分転換するようにしているのだが、そうしたことをせずに継続して読んでいると、いつのまにか学生時代のように居眠りしながら、夢の中で読んでいる。しかも、学生時代同様に夢の中で読む文章は、実際にそこにある文字と文脈と差異がない上に、文面のイメージがそのままそっくり夢のなかで見えている。

 諺で(ちょっとニュアンスが違うが)、「雀百まで、踊り忘れず」というが、今の私は、学生時代から40年かけて取り戻した「自由」という環境の中で、学生時代のような精神状態を取り戻しつつあるのかもしれない。

 もっとも、せっかく「自由」な精神を長年にわたって苦労した末に取り戻しても、その精神を発揮するための脳力、気力、体力などは、すでにこれまでの仕事で浪費してしまったため、まったく及びもつかない状態になっているのが、とても悔しい。これを称して、「少年老いやすく、学成り難し」というのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?