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<書評>『現代詩・土着と原質』


現代詩・土着と原質


『現代詩・土着と原質』 小川和佑著 教育出版センター 1976年

1.総論的なもの

 私が明治の文芸科(小川和佑は同大同科の先輩にあたる。既に逝去されており、遅ればせながら後輩・受講生としてご冥福を祈ります)3年になったとき、文学研究のゼミが自由に選考できた。特定の希望はなかったが、友人が「小川和佑のゼミが良いから、一緒に入ろう」と誘ってくれて、それで内容を良く知らずに入った。4年次も続けて入った。

 入ってからわかったことは、テーマは詩、それも現代詩がテーマだということだった。そして、ゼミの仲間には実際に詩を書いている人がいた。レベルが高いと思った。また、ゼミの内容は、各自が選んだ詩と詩人についての論考を順に発表する形式でやっていて、けっこう楽しかった。しかし、ゼミの学生がゼミ以外で交流する(飲み会とかピクニックとか)というのはなかった(私が誘われなかっただけかも知れないが)。

 私が3年のときは、『日本抒情詩集-現代』から伊藤桂一の「存在」という詩を選んで、当時没頭していた哲学的考察をしてみた。4年のときは、哲学的かつ芸術的な文化人類学に目覚めていたので、ジョルジュ・バタイユ『ラスコーの壁画』とクロード・レヴィストロース『野生の思考』を元にした論考を発表した。

 3年次はまだしも、4年次の私の発表は詩ではないばかりか、文学からも遠くなっていて、いうなれば美学的なものになっていた。それで、小川ゼミの雰囲気とは縁遠くなってしまったと自覚していたが、若い私はそれを良しとしていた。また、私自身の中でも、現代詩に対する関心は薄れていたのだと思う。

 ところが、就職してからは、急に現代詩に興味を持ちだした。というよりも、私が不本意ながら(時に理不尽な状況にも耐えつつ)生きるために仕事をして金を稼ぐ一方、そうした鬱屈した気持ちが、私自身に詩を書くように促していた。詩を書くことで、私の精神は、しばしの安定を得られていたと思う。仕事をしていたときの私にとって、詩=文学は、自尊心の維持につながる現実逃避の手段でもあった。

 その後、次第に私は仕事の世界に馴染んでしまい、その仕事をするための「仮面」かつ「虚構」の世界の住人に違和感なくなりおおせるようになると、詩を書く原動力が失せていった。その代わり、やはり仕事と自分自身との乖離は存在していたので、これを埋めるべく、時々短編小説や映画評論を書いていた。詩まで昇華するような大きな感情は、既に発生しなくなっていたのだと思う。

 そうした中で、ある日書店で本書を見つけた。懐かしい気持ちに加えて小川和佑について知っていないことが多かったことから、もっと知りたいと思った。しかし、そう思っていたのは購入時だけで、あとは積読(実家の本棚の奥深くに埋もれていた)状態で最近まで放置されていた(もしかすると、私は詩に対する興味が少ないのかも知れない)。

 そして、定年となった今、実家の本棚を整理し自宅に移す作業をしている中で、本書を見つけ、ようやく読む機会・意志を得た。今となっては、時代背景が古いと思われるが、一読して、本書の書かれた時代を強く実感した。「戦後」、「全共闘運動」、「ディスカバージャパン」、「地方回帰」、「刀剣と殺陣」「性の解放」、「文学の在り方」といったキーワードから、何か歴史の研究をしているように感じながら、「それは当たっているな」、「そう考えた時代だったのか」、「今はそんなレベルをとっくに通り越した」、といった感想を持ちつつ、年末年始の短期間で読み終えた。

 ところで、私は2022年12月に現代詩に関する小論文を書いた。上述のとおり、私の詩に関する教養は不十分なので、それを補填する意味もあって、本書を読み始めた。そうして、「高田敏子」という詩人を批判している箇所を読んで、「そういえば、そんな詩人の名前を小学生の頃に聞いたな」と思い出した。気になってネットで調べたら、短歌の俵万智のような存在で、文学云々ではなく、まるで小学生が書くような日常生活を簡易な言葉で書いた詩人だった。そして、今でもある程度のファンがいることを知った。現在の読者は、難解なものを忌避し、読みやすいものを要求する時代だから、彼女の詩が生き残るのは自然なことだろう。残念ながら小川和佑の批判は、大衆に届かなかったようだ。

 一方で、現在は文芸史の中に埋没してしまったような詩人たちの名前を再確認できた。室生犀星、三好達治、堀辰雄、立原道明、荻原朔太郎などだ。なぜか中原中也は出ていなかったのだが、たぶん小川和佑の好みではなかったのだろう。(1970年当時の)現代詩の分野では、土橋治重と秋谷豊の二人が取り上げられていた。他にも鮎川信夫、高見順、黒田三郎、清岡卓行、大岡信、寺山修司、白石かずこなどの当時のメジャーだった詩人は、本書では対象になっていない。また、今でも著名な詩人である谷川俊太郎は、『日本抒情詩集-現代』にそもそも入っていない。その理由は不明だが、これらもたぶん小川和佑の好みではなかった(あるいは、敢えて論評するような対象ではなかった)のかも知れない。

 なお、私がゼミに在籍していた当時、小川和佑はさかんに「日本人と桜」について話をしていたのを思い出した。ネットで調べると、この分野の研究成果を論文にしている他、NHKなどでも講演していたようだ。なんとなくイメージできるのだが、小川和佑にとっての日本人論及び日本文学研究の到達した地点のひとつが、「日本人と桜」だったのかも知れない。

 結論としては、詩の論文を補強する上でとても参考になったが、それ以上に歴史的文学評論として知るところが多かったように思う。とはいえ、私が現代詩に現在でも関心を持ち続けられ、そして詩作を意識するようになれたのは、小川和佑のゼミのおかげであり、そうした諸々のことに篤く感謝申し上げたい。

2.各論的なもの

 次に、批判するつもりはないが、執筆当時から既に46年余が経っているので、自ずと時代背景や状況は異なっている。また、新たに判明した歴史的事実もある。そうしたことを踏まえて、気づいた点を列記してみたい。

(1)高橋克己と柏原兵三

 小川和佑は、三島由紀夫や川端康成の突然死(自殺)を、世間一般は当然として、同人誌の参加者も同様に知悉しているのに比べて、高橋克実と柏原兵三を知らないと嘆いている。しかし、今や全共闘運動やベ平連(ベトナムに平和を!市民運動)などは、遠い過去の歴史的な(そして哀しく虚しい)事件でしかない。そして、戦後の愛国主義批判が、GHQによる高度に仕組まれた情報操作=洗脳の成果であったことと同様に、これらの1970年代の政治運動も純粋な動機による市民運動ではなく、米ソ冷戦構造の中で行われた情報戦(スパイ活動)の結果であったことは、現在明らかになっている。つまり、本書執筆当時のような「民衆運動」といった理想(妄想)は、すでに消え去っている。

 したがって、高橋克己と柏原兵三の二人は、こうした戦後から1970年安保運動の際に理想に燃えた青年たちにとっては、特別なカリスマ的な存在であったとしても、その文学作品は、そうした時代背景に依存したものであり、文学史に長く残るものではなかったと言わざるを得ない。一方で、三島由紀夫や川端康成は、たんに流行作家であった(また、川端はノーベル文学賞受賞者であった)ことだけではなく、彼らが創造した文学作品が優れたものであり、長く人々に読み継がれるものだったからこそ、マスコミで大きく取り上げられる十分な理由となったのだ。マスコミは、単純に流行を追いかけるだけにも見えるが、この場合は歴史的必然を報道していたとみなせるだろう。

(2)剣と刀について

 小川和佑は剣道有段者でもあるため、いわゆる剣豪小説の描写や映画や時代劇の殺陣に対して、リアルでないことを指摘しつつ、所詮殺戮でしかないため、リアリズムは通用しないと述べている。また、刀を実用武器のみならず、呪術的に崇拝するのは日本神道及び日本文化のみであり、西洋において刀は実用器具でしかないと決めつけている。

 しかし、映画『スター・ウォーズ』シリーズにおけるように、西洋文化においても刀=レーザーサーベル(日本語ではライトセイバー)が、呪術的な意味合いを持つ部分が確かにある。また、ギリシア神話で剣を作ったのは、工匠の神ヘパイストスである他、ケルト神話には湖の妖精から授かった名剣エクスカリバーがあった、さらにルネサンス時代にも特別な剣は存在したし、その後も実用以上の宝剣といえるものはいくつもあり、現在まで続いている。

 また、人が石器時代から青銅器時代、さらに鉄器時代にいきなり入ったことの合理的な説明がつかない一方、そこに地球外生命体=神からの関与があったのではないかという説が、最近有力になっている。つまり、岩石を割るだけで製作できる石器でしかなかった武器が、いきなり鉱物資源を溶かし、鍛錬する高度な作業を必要とする青銅器や鉄器になったとき(それらが突然に発明・付与されたこと)に、人は特別な存在を意識したのは自然なことだろう。また、そうした武器が文明の発展に大きな関与をしたことから、たんなる実用器具としての刀剣ではなく、そこに特別な超自然的な力を感じていても不思議ではない。そして、これが古代世界の人類だけではなく、そうした歴史の記憶が現生人類のDNDに刻まれている(ユングの集合的無意識)ことを想定すれば、現代において刀剣を神聖視する心理が日本文化だけのものだと考えるのには無理があるし、そうした心理は全人類共通のものであるはずだ。

 現在、日本の刀剣を学びに多数の西洋人が訪日している他、日本の刀剣は、実用的な包丁レベルにおいても、世界から注目されている。このことからは、単純に日本文化のみが刀剣を神聖視していると結論づけるかも知れないが、実際は世界中の人が、日本だけにあるものを学びに来ているのではなく、自分たちと同じものの別世界があることに魅力を感じ、また刀剣に関して実用以上の魅力があることを理解しているからなのだ。刀剣の呪術的な魅力は、日本独自のものではなく、世界及び人類共通なのだ。

(3)詩(及び文学)における性表現について

 1970年代当時は、アダルトビデオもインターネットもスマホもなかったから、エロに触れる手段は、ストリップなどの風俗、雑誌、小説などに限定されていた。そうした状況では、川上宗薫などの流行作家を生み出した他、スポーツ新聞などにはかならずエロ小説が連載されていた。そうした中で、同人誌などの作者があからさまなエロチシズムを表現したとしても、それは当時の状況からみれば、ごく自然なことだったと思う。

 小川和佑は、そこに一種の文学的可能性を見出そうとしたようだが、前述のように今はエロに触れる手段が容易になった他、文章を読んでエロを想像するという行為自体が、1970年代に青春を送った老人だけのもの(一種の郷愁でもある)になっている。そのため、やがて文章によるエロ表現は自然消滅していくと思われる。もし文学の中にエロが残るとすれば、より文学的に純化した形でしか残らないだろうし、そこに煽情的なものや抒情を求めることは難しいだろう。また、エロの表現は、文学的に新しいスキルですらなくなっている。

 一方、エロに触れる手段が簡易になったため、人は不思議なもので、自由にいつでも手に入るようになると、その対象に対する興味を急激に失う(人は目の前にないものを欲しがり、目の前にあるものは無視する)ため、今はエロが特別なものではなくなっている。一つの経済媒体としてはこれからもエロ産業は一定規模で存続していくだろうが、そこに熱気や新鮮味はなくなり、ただ倦怠感と人権問題だけが残ることになるのだろう。

 したがって、1970年代のように人はもうエロを求めることはしなくなると思う。なぜならエロがエロでなくなったからだ。だから、もう詩や文学で性をテーマにすることは、一部の創作者はこれからも固執するかも知れないが、多くの関心を呼ぶ対象にはなりえない。例えば、ある人がご飯を食べた。別の人が排泄した。こんなことを文学の題材にできないのと同様に、性が人の生活の一部、生物としての行為そのものであるかぎりは、誰もが興味を示さない対象になるしかない。

(4)文学とは何か

 小川和佑によれば、文学とは個、つまり個人の孤独な作業(世界)であるとし、またそうあることが理想だと読み取れる書き方をしている。しかし、文学が大衆のものであっても、私は、それはそれで良いのではないかと思う。

 文学が芸術のひとつであることに異論はないだろう。表現の方法が、絵画や彫刻であるか、文字であるかの違いでしかない。そして、芸術は個人が創作するものではあるが、そのすそ野は幅広い。石器時代人の壁画、古代宗教祭儀の絵画や彫像、アマチュア画家の作品、幼児のお絵描き、これらの全てに芸術を見ることができる。

 ところで、芸術の条件は、(a)とても古いもの、(b)自分自身を含めて、模倣していないもの、(c)これまで誰もがやっていない・創作していないもの、という三つとされている。こうしたことを満たしていれば、それが個人であろうと大衆であろうと(石器時代人か現代人か、幼児か大人かの別なく)、芸術に値することには変わりはない。ただし、一般的に大衆の創作活動は、これらの3条件のいずれに合致しないものが大半を占める。特に(b)と(c)に該当するものは、皆無に等しいだろう。

 そのため、おのずと芸術創造を目指す個人による学習と鍛錬による結果が、真に値する芸術作品となりえることになる。小川和佑の言うところの「個」という概念は、こうした個人の孤独な努力を必要とすることの意味であったと理解したい。

 一方、日本文学においては、純文学を頂点にして、中間小説とか私小説、はては通俗小説などの様々なジャンル分けが行われてきた。そして、このうち芸術としての文学に相当するものは純文学のみであり、その他のものは芸術=文学に値しないと見なされてきた。しかし、たしかに純文学のなかに、上記3条件のいずれかに合致するものが多いことは認めるが、その他の分野で条件が合致するものが皆無とまでは言えないだろう。可能性としては低いが、そこに芸術性=文学性を認めるものがあっても良いはずだ。

 以上の観点から、私はアメリカの通俗小説と見なせる1920年代の流行作家リング・ラードナーの短編を、優れた芸術=文学だと見ている。なぜなら、彼は(b)と(c)に該当するからで、それは同じアメリカのエドガー・アラン・ポーにも言えることだ。そして、この二人に共通することは、彼らの作品が面白い=エンターテイメントであることを強調したい。

 一方、私の崇拝するサミュエル・ベケットの作品は、難解でエンターテイメントとは言えないものが大半を占めるが、彼を有名にした戯曲「ゴドーを待ちながら」は、哲学的なセリフをエンターテイメントの領域に昇華させている作品だと思う。そして、一度このベケット特有のエンターテイメント性を理解すれば、その他の難解に見える作品がエンターテイメントに見えてくるから不思議だ。

 しかし、誰もが私と同様にベケットを読むわけではないし、むしろそうした点に面白さを感じる読者・観劇者は少数だろう。だから、「ゴドーを待ちながら」はマイアミでアメリカ初演を行ったときは、二人のアメリカの有名な戯曲家を除いて、観客にはまったく不評だった。

 一方、ラードナーやポーの作品は、マイアミビーチでデッキチェアに寝そべりながら読める作品である。実際、ラードナーの作品には、夏の間フロリダで長期休暇を取る中産階級の夫婦がたびたび登場する。私の好きなもう一人の作家JD・サリンジャーの著名な短編「バナナフィッシュにうってつけの日」の舞台も、フロリダのビーチであり、登場人物は新婚旅行に来たニューヨークの中産階級カップルだ。

 中産階級は、そのまま大衆の中心層といっても過言ではないと思う。一方、ラードナーやサリンジャーの読者には、中産階級に加えて下層階級の読者はたくさんいるが、知識階級からは高い評価を受けていない。なぜなら、日本では通俗小説と蔑称される対象だからだ(もっとも、日本では海外文学という別のジャンルがあり、日本文学のように厳然と区分けしていないと思う)。

 しかし、ラードナーやサリンジャーの作品はエンターテイメント性があって面白い。それは私だけでないことは、世界中でベストセラーになっていることからもわかる。つまり、エンターテイメントと文学=芸術は両立するのだ。そして、エンターテイメントを持つ文学を創作することこそ、むしろ詩人や作家に求められていることなのではないかと、私は確信している。


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