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瞑想の種類 〜カナダで禅に出会う〜

去年の秋に、私の好きなヨガの先生のリトリートが近所であったので行ってきた。

それまであまりどんな内容のリトリートかわかってなかったのだけれど、
蓋を開けてみたら禅ベースのプログラムだった。

近場の秘境の森の奥での3泊4日リトリートのプログラム。
しかも、ここカナダだっけ?と一瞬頭が混乱するほど仏教と禅の書物がビッシリ並ぶ、禅と仏教にインスパイアされた、サステイナブルで静かな佇まいの宿舎だった。

カナダで禅の教えを学ぶ

内容は、1日4回、最低でも計4時間が座禅の時間で、座禅と座禅の間はそれぞれ1時間半くらいのヨガを行う。

夕飯後から翌日のランチ終了までは、サイレントタイムと言って、他人と会話してはいけない。
言うなれば、ヴィッパサナ瞑想とヨガとシェアリングが混じったようなリトリートプログラム。

祈りの瞑想(慈悲の瞑想)

私は今まで、瞑想というと、割と祈りに近いかたちの瞑想を行ってきた。

もともとはシュティカ(注:近隣のファーストネーションの有志が森を開発から守るための活動をサポートしてたことがあり、かなりスピリチュアルな日々を送っていた)に出会った時に、シュティカを守っている長老の祈りや部族の人たちと一緒に、地球へ感謝を述べたり、人々の幸福を願う機会があり、その時に学んだものだ。

その方法をざっくり言えば、自分自身や苦しみを受け入れ、感謝や愛の光を当て、自分の外側、家族、自然、そして地球、宇宙に向かって光(幸せ)を増幅させていくという方法で、スピリチュアル的な世界では非常によく行われている方法だと思う。

その方法は、確かに自分の中に光が溢れて心が温かくなり、一体感を覚えるので大好きだった。

けれど、子育てが始まってからは、リアルな現実に戻った時に調和のとり方が難しくなった。

愛だ調和だとわかっているのに、子育てで手一杯、イライラしている自分に罪悪感を感じるという悪循環に陥ってしまい、結果自分を苦しめることになってしまったので、スピ&光の瞑想からはしばらく距離を置いていた。

禅的な瞑想

比べて、禅の瞑想とは、
瞑想で何かを体得するとか、
悟りをひらくとか、許したり、祈ったりするといった
瞑想の「目的」が無い。

目的がないのに座る。

ほら、もうここから禅問答が始まっているといっても過言ではない。
文字通り、目的もなくただただ座り、
鼻から息を吸って、口から息を吐く。
もちろん、言葉によるガイドもないし、
心が穏やかになるような素敵な音楽もかけない。

その行為には
愛も、感謝も、祈りも捧げないし、悟りも光明も得ない。


ただ呼吸をし、
ただ座る。

以上。

魔境から脱出するための瞑想

ちなみに、禅では、悟りや光明を得た、神に会ったとか、あるいは全能感やメッセージが降りてきたという状態を「魔境」と呼び、中途半端に覚醒した人が陥る精神のバランスの崩れた状態だと一喝している。

私は一時期、魔境をさまよっていたという自覚がある。
その魔境で迷子になったことがあるからこそ、禅の教えを読んだときには、
久しぶりに体に電気が走った。

自分の内側に落っこちているヒラメキ

で、ただ座ることで、何が起きるのかというと、私の体験では、ただひたすらに雑念が湧き上がっては消え、そのうち足が痛いだ体が痛いだと、体も騒ぎ出す。


そういったことにも、できればなるべくとらわれずに座り続ける。

さらにそのずっと後に、雑念の奥深くから、本当の欲求がちょっと顔を出す

この欲求は、日頃雑念や、固定観念、プライド、愛や感謝というベールに混じって、自分でもなかなか気づくことができない。

それを、ぱっと掴みに行く。

目的を持つな、という禅の教えには背くけれど、
私は、その欲求の正体を掴む訓練をしているような感じがする。

文字通り「今と繋がる」ための瞑想

それと、雑念というのもなかなか素晴らしいもので、私が今、この瞬間感じていることを、浮き上がらしてくれるので、文字通り、今ここ、この瞬間の自分とつながることができる。


足が痛いだなんだ、体の声も、まさにいまここなのだ。

前に行っていた祈りの瞑想は、宇宙のエネルギーを浴びるイメージか、もしくは内側から外に向かってエネルギーを放出しているようなイメージだった。

しかし、禅の瞑想はひたすらに内側にある。

ひたすらに自分とつながると、
瞑想が終わって日常に戻っても
不思議なことに外側に影響されることが少なくなる。
瞑想後に自分と全く異なる波動の人にあっても、何も感じない。


私が禅的瞑想が「超絶グラウンディングである」と呼ぶ所以もこんなところにある。

ちなみに、仏教でも、最初に述べた祈りの瞑想に似ている「慈悲の瞑想」と呼ばれる方法もあるそうだ。

もちろんこの方法も、心身を健康に、自分の状況に感謝し、自分や周りの人達を幸せにする素晴らしい方法だと思う。

今の私には禅的な瞑想が心と体の健康に役立っているけれど、そのなかに慈悲の瞑想的な瞑想を取り入れることもある。

私もまだ入り口に入ったばかりで、
まだまだ何かを語れるほどではないけれど(これ読んで違う!って思う人もいるかもしれない。すいません)、
禅のシンプルさと潔さは、
情報が溢れている今の世の中から、
自分の核を知り、強くするための素晴らしい方法だなと思います。

合掌

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