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かつてその身体には、「名前」があった

学習塾に遅くまで居残って勉強をしていた中学生時代のこと。母が作り置いてくれた夕飯をあたため直し、長風呂をし、髪を乾かす時間にもなれば家族は全員寝静まっていた。深夜一時を過ぎたリビングで最小限の音量に設定した適当なTV番組をぼうっと眺めながら化粧水をはたいたり、髪の手入れをする時間が好きだった。受験勉強で凝り固まった頭がゆっくり解けてゆく真夜中、生意気に優しい孤独の味を占めては、帰宅の時間をどんどん遅めたものだった。

その日も長風呂で熱った顔に化粧水をはたきながら、ぼうっとチカチカ光る画面を眺めていた。いつもの優しい夜。いつもの無思考のルーティン。顔の熱りが引いたところで、長い髪にドライヤーを当てる。轟音でTVの音が聴こえなくても別にどうでもいい。それを観たいわけでも聴きたいわけでもない、真夜中のしじまにどぷっと浸からないように、こういう情報ノイズが少し役立つだけ。けどその日、その画面が映し出されたとき、わたしはドライヤーの電源を切った。髪の雫をポタポタさせながらリモコンに手を伸ばし、音量を上げた。

番組名とか、どこの局の放送だったかとか、そういうことは何も覚えていない。画面に流れていたのはベトナム戦争の時代、米軍の撒いた枯葉剤の影響によって産まれた奇形児たちのホルマリン漬けを収容する施設だった。殆どの映像にはモザイクがかかっていたが、モザイク越しにも十分に、瓶の中身が『ぐちゃぐちゃ』であることが確認できた。

場面が変わり、今なお生まれ続ける奇形児たちを収容し、世話をする福祉施設が取材されていた。顔にモザイクを掛けられたそれぞれの子どもたちの状態について、スタッフの女性が説明をしている。身体の数倍に肥大した頭部でベビーベッドに横たわる子ども。多数の手脚で床を這う子ども。四肢を縛られ、青黒い爛れた皮膚で絶叫し続ける子ども。『この子たちは長くは生きられないし、外の世界にも一生出られないの。』取材が進むにつれ、あまりに無秩序に変形した子どもたちの身体と対面を進めるにつれ、インタビュアーの女性は段々と口数を減らし、「ああ」、「ああ」、と喉を詰まらせるだけになっていた。

その日は全く眠れなかったと思う。たった数十分の番組だったが、生涯忘れられない映像となった。15歳の私はベトナム戦争の際に米軍が枯葉剤を巻いたことは知っていた。枯葉剤による妊婦への被害のことを知っていた。けれど、残虐な兵器によってほんとうに奪われるものを初めて知った。戦争の暴力によってほんとうに奪われるものを初めて目の当たりにした。ホルマリン漬けの「ぐちゃぐちゃ」の何かは、肥大した頭部の後姿は、床に広がる多量の手脚は、天上に響く絶叫は、その青黒い爛れた皮膚は、不可抗の暴力についての〈全て〉であり、それ以外の何ものでもない。それ以外の何ものにもなれないまま、隠された場所で静かに息を引き取ってゆく。

彼らに、彼らのために呼ばれる名前はあっただろうか。他の誰でもない、かけがえのない固有の存在を規定する、名前はあっただろうか。それは私の、人生で初めての戦争体験だった。アンネフランクの日記を読んで読書感想文を書いても、ナチスがホロコーストの中で行っていた生体実験や拷問の記録を学んでも、決して知ることが出来なかった「暴力」というものの中身だった。

2週間の占領ののち、イスラエル軍が退いたアルシファ病院の残骸は想像を絶するものだった。墨のように真っ黒な、かつて人間のどこか何かであったろうバラバラのかけらたちで溢れていた。黒焦げの遺体は全てブルドーザーに轢かれていた。身元の特定は不可能、遺体の殆どに、手脚を縛られた拷問の痕があったという。

戦時下の暴力が「死者数」「負傷者数」に置き換えられるとき、見えなくなるものがある。刻々と進行する凄惨な現実がやがて歴史に組み込まれるとき、見えなくなるものがある。粉々になるまで潰され、かき集めて纏められ、真っ黒なひとつの山になる「前」、彼らには其々の、愛する人に/家族に/友人達に呼ばれる、其々の名前があった。

戦時下の暴力が国家対立や宗教問題に置き換えられるとき、見えなくなるものがある。ひとを人たらしめるものとは、其々の帰属文化やアイデンティティや思想ではない。人間であることとは、爆発の破片が突き刺さって流れる血があり、化学兵器によって溶ける皮膚があり、肉片の山に子どもの欠片を探す泣き濡れた眼があり、耐え難い痛みと飢えを感覚し、知覚する其々の、固有の心とからだを持って存在することだ。


15歳の真夜中、ホルマリン液に沈む瓶の中の〈ぐちゃぐちゃ〉に問うた。奪われたあなたの名前は何だった?
32歳の真夜中、広場の一面に並ぶ真白い遺体袋の陳列に、墨の様に砕かれた欠片たちに、問うている。奪われたあなたの名前は何だったの?

白いガーゼに包まれた小さな娘の遺体を開き、父親はカメラマンに彼女の顔を見せながら訴えかけるように叫び続けている。
「分かるか?彼女がどれだけ美しいか。」
「分かるか?彼女の眼がどれだけ美しいか。」
「これがマイス、マイスだ。」

彼女の額にキスをし、父親は遺体袋を閉じる。
「マイスはもういない。」



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