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【日本一周 京都・滋賀編20】 龍安寺での暇のつぶし方

・陽だまりの石庭

 続いて目指すは龍安寺。仁和寺からは徒歩でも行ける距離にあるが、時間削減のためにバスを使う。

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 龍安寺に着いたものの入り口がわからず、広い駐車場をうろうろしていると警備員のおじさんが「こっちだよ」と言葉少なに教えてくれた。優しい。受付でお金を払って門をくぐると、左手には大きな池があった。鏡容池という名にもかかわらず、英語の看板にはLakeと表記してあった。確かに大きいけど、湖とは強気な、、。


 方丈に入ると、すぐにかの有名な石庭が現れた。観光客は数えるほどしかいなく、特等席の縁側に腰かけてのんびりと鑑賞した。昼のあたたかい日差しに照らされた石庭は、見ているだけで心が凪ぐ。時折、葉擦れの音や鳥の声が聴こえて、その度により深いところへと潜っていくような心地がする。龍安寺の石庭は、Karesansui Gardenとして中学の英語の教科書にも登場するほどあまりに有名な場所だが、その過度に膨れあがった期待を当然のようにうけとめるだけの度量がある。日常の中にふとさしこんだ陽だまりのような時間であった。そういえば、縁側から見える木々の中にシュロの姿が見えて、南国と侘び寂びのとりあわせが愉快だった。

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 バスが来るまで時間があったので辨天島に立ち寄り、松葉相撲に興じた。戦績は連戦連勝。私が強すぎるのか、それとも尾道が弱すぎるのか。それでもなお時間を持て余した我々は、入り口に大量にならぶ自販機のそれぞれにおいて、もし一本買うならどれを選ぶか?を決めていくという生産性のない時間を過ごした。でも、やっていると意外と楽しい。そうこうしているうちにバスがやってきて、我々は金閣寺へと運ばれていった。

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レトロ広告塔


明石

・詫美寂美

 仁和寺と鹿苑寺を結ぶ直線上に龍安寺は位置する。龍安寺と言えば、中2英語の教科書で「Karesansui Garden」として紹介される石庭が印象的で、逆に言うとそれ以外の印象は何もない。中学の修学旅行では、金閣寺向かう途中にあるし行っとく?という惰性的な動機で足を運んだが、今回も(個人的には)同じような理由だ。きっと他の観光客も似たような理由で足を運んでるんじゃないかしらん。

そこでこの場を借りて大胆に宣言しときたい。龍安寺の人気は寺自体の魅力というか、立地に支えられている可能性が高い、と。

 窓口で参拝料と引き換えに天龍寺のデザインによく似たチケットを受け取り、奥の石庭へ向かう。道中の自然は典型的な庭園といった趣で、前日の疲労が抜けきっていない我が身を惹くものは特になかった。

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 意外と歩かされるなと思い始めてきたころ石庭に到着。5年ぶりの再会となる石庭は、コロナの影響でだいぶ閑散としていたので、縁側のど真ん中に座り込み枯山水をじっくり鑑賞する。

 ところで、竹帚で白砂をなぞって流水の様を表現するという発想は、「静」のなかに「動」を閉じ込めるというコペルニクス的転回を孕んだアイデアで、現代アートの思考回路に近しいものを感じる。発案者はだいぶトガった人間であったに違いない。

 この枯山水は、詫び寂びの典型として取り上げられることが多いが、これが意味するところはかなり曖昧で、自分もフィーリングで理解してきたタチだ。

 ただ、しばらく眺めているうちに、普遍的な美を探求する姿勢こそが詫び寂びの特徴と言えるのではないかと思えてくる。


 石で疑似的に流水を再現すると、突風が吹かない限り水の波紋が崩れることはない。万物流転の考えに逆行するこの営みは、普遍的かつ簡素な美を立ち上げ、その分見る者に自由な解釈を提供する。極度な抽象化の末に残る本質的な美の問題は、完璧な理解を不能にすることと引き換えに、普遍的で果てしない美的感覚をもたらす。こうした挑戦が為す様相を詫び寂びと呼ぶのでないか、、、、、と考えるうちに頭が痛くなってきた。

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これといった感想のない鏡容池

 帰り際、鏡容池の浮島にふらっと立ち寄ってなんとなしに松葉相撲に興じる。寺社仏閣巡りは、歴史背景や建築技法なんかを咀嚼するうちに意外と頭が疲れてくるもの。松葉相撲はそんな自分を一瞬だけ童心に帰らせてくれた。頭を使わない遊びはさらに続き、出口付近の自販機ではお互いの飲みたい飲料を勘で当て合うゲームもやったが、結果は忘却の彼方。

尾道

・メンバー
明石、尾道

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