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読書の記録 #6『死ぬまでに行きたい海』

四ツ谷。初台。海芝浦。上海。バリ。YRP野比。

『死ぬまでに行きたい海』(岸本佐知子 著、スイッチパブリッシング』は、“鬼がつくほどの出不精”という岸本さんの「見聞録」(主に)をまとめたエッセイ集だ。

ふせんを貼った箇所を読み返していると、どうも自分は岸本さんの「羅列」を面白がっていることに気づく。

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例えば、OL時代を過ごした赤坂見附を“ソバージュの気配”とともに歩きながら、岸本さんはこう羅列する。

“また246に突き当たり、私たちは最後の通りを赤坂方面に引き返す。すぱじろう。カラオケ館。エスパス。てんや。ジェルネイル。いきなりステーキ。コンビニ。またカラオケ館。もうあまり確かめずにのしのし歩く。〈中略〉パセラ。てもみん。はなまるうどん。岩盤浴。エクセルシオールカフェ。auショップ。歩きながら、いろんな思い出や顔や声が脈絡なくつぎつぎに蘇ってくる。”(「赤坂見附」より)

「すぱじろう」のすっとぼけた感。何の店だか知らんが赤坂にはしっくりくる「エスパス」(パチンコ屋だった)。「てもみん」はゆるキャラみたい。もはや店名ですらない「油そば」「ジェルネイル」に「岩盤浴」。

とりたてて面白みのない代替可能な風景は、岸本さんの手で文字になったとたん、表情が生まれ、かたかたと音を立てはじめる。

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もう一丁。経堂で過ごした少女時代に通っていたピアノ教室を訪ねて、岸本さんはふたたび羅列する。

“前の子がレッスンを受けているあいだ、すり切れたゴブラン織りのソファに座って「少年マガジン」を好きなだけ読めた。マガジンは床のいたるところに積んであって、二階に上がる階段にまであふれていた。丸出だめ夫。キッカイくん。紫電改のタカ。無用ノ介。〈中略〉すり切れたゴブラン織りのソファ、その足元には当時のままの少年マガジンが埃をかぶって積まれていた。墓場の鬼太郎。おれは鉄兵。ほらふきドンドン。楳図かずおのウルトラマン。”(「経堂」より)

当時の「少年マガジン」の表紙を飾ったそうそうたるマンガたち。もちろんどれも実在する作品だ。けれども、岸本さんの記憶を通して配列されたとたん、マンガたちはぷるぷると震えはじめる。まるで「自分たちは本当は実在しない作品なんじゃないか」と自らを疑いはじめたかのように。

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はじめに「見聞録」と紹介したが、思えばこの本は「記憶」にまつわるエッセイばかりだ(実際のところ、岸本さんはそれほど出歩いていない)。

あの時、あの場所にたしかにあった、もの、店、風景。本やネットをたどれば、多くはその存在を確かめられる。それでも、記憶の中から取り出されて配列されていくうち、それらはとても不確かで、風が吹けば飛ばされてしまいそうなほど脆いものになってしまう。

“その七年ぶんの記憶は私の中で混ざりあい、ちょうどたくさんの地層を上から透かして見るみたいに、記憶や映像がいくつも重なり合って見える。場所だけが不変のまま、何人もの私たちが折り重なって同時に存在して、飲んだり、歩いたり、笑ったりしている。”(「三崎」より)

岸本さんは、薄れ、変わりゆく記憶の危うさを否定しない。折り重なりながら伸びていくパラレルなワールド。そういった世界を歩くことを、楽しんでいるように思えた。

2021.08.09

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