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雨の香炉と色づく想い─梅雨屋目録

 お客さんには思い出したい記憶ってェありやすかァ? 大切だったはずなのにどうしても思い出せねェ記憶。人間様の記憶は儚いものですから”思い出したい”ことさえ忘れてらっしゃるかもしれませんねェ。
 この物語は記憶を求めるお嬢さんの話でさァ。
 さァて、お立合い。
 これより語るは願いか愛か、はたまた呪いか。梅雨が奏でる噺の世界へようこそ。

○ ○ ○

 動かない君の横顔をもう何回見たことだろう。
 冗談みたいに白い病室。心拍を計る機械音。前に私が持ってきた花は萎れていて、君はベッドに横たわっている。あの地震があってからずっと。
 あの日、大地震があったあの時、彼は会社へ帰る途中だった。怒り狂ったように揺れる地面に彼が何を思ったのかはわからない。知っているのはその時、倒壊し始めた建物から子供を守るために飛び出していったことだけ。
 一命を取りとめたのが奇跡だと言われた。最悪の事態にならなくて良かった、と言わんばかりに放たれたその言葉に、私の心の中は同意と怒りでぐちゃぐちゃになった。
 どうして自分の命を最優先にしてくれなかったの、と。よく出来た人間じゃない私は子供の命が救われたことを喜んであげられない。憎いとさえ思う。あの時、君が建物の前にいなかったらお兄さんはこんなことにならずに済んだんだよ、と。口に出して言うことはないけれど、それでもその気持ちが言葉になって表れてしまったことに、自分でも嫌な人間だと思った。それにそんなことを言い始めたらキリがない。彼がずっと会社にいれば昏睡状態にはならなかったんだから。どうして、と。言い始めたらキリがない。
 キリがなかった。
 憎んで、恨んで、嘆いて、君の病室に毎日通って、その度に今日は起きてくれるんじゃないかなんて淡い期待を抱いて。打ち砕かれて。
 そんな日々だった。
 今はもう、期待することもあまりできない。毎日病院に通うこともしない。私が来るのは2、3週間に1回程度になって、その頃には花はすっかり萎れていて、この花は何のための花だったっけと思いながらそれを取り替える。
 彼が匂いを感じているのかもわからない花をそれでも持ってくるのは、彼の家族を知っているから。彼の家族が、私は未だに君のことが好きなんだと思っているから。花が萎れたままじゃ私の気持ちが揺らいでいることがバレてしまう。だから、バレないように。いつか花を取り替えることを止めてしまうんじゃないかとは思っているけれど、今はあの人たちが「いつもありがとう」と言ってくれるその言葉に「もうここには来ません」と言える勇気はない。
 薄情だ、と人は言うだろうか。
 もう3年も目覚めていない彼に対して恋愛感情を失くしてしまっていることに。
 なら私はなぜ未だに花を取り替えているのかと言えば、それは自分でもよくわからない。気持ちの整理がつけられない。動かない彼の横顔を見て、「次の瞬間に目覚めるんじゃないか」と思えずに、むしろ「可哀想だ」とさえ思っている私は、とっくのとうに彼への愛を失っているんじゃないか。それでも見栄を張るように花を替え続けている私は、やっぱり人としてどこか欠落しているんじゃないか。
 そんなこと考えたって、どうしようもない。いつだってとりあえずの結論は「私は嫌な人間なんだ」というところに落ち着く。彼のことを想ってあげられず、でも周りの人には嘘をついて、待っているふりをする。
「君は悪い人と付き合ったね」
 答えが返ってこないから言えること。実際私にはわからない。どうして君が私と付き合おうとしたのか。どうして私は君を好きになっていたのか。今ではもう、答えがどこにあるのかなんて、わからない。
「そろそろ行くね。さよなら」
 ピクリとも動かない君にそう言って病室を出る。
 『またね』が『さよなら』になったのはいつからだったっけ。期待しなくなったのは、いつからだったっけ。最後に見た君の笑顔を思い出せなくなったのは、いつからだったっけ。
 少し、溜息がこぼれる。
 私は君に恋をしていた頃に戻りたいのかな。それとも待ち続ける日々を終わらせたいのかな。
 何回も何回も、グルグルしている頭の中を変わらずに歩いている。突破口なんて見つかりようもない。君が目覚めたら、それも分かるのかもしれないけれど。分からなかったら、と思うと怖い。私はどんな顔をして彼に会えばいいんだろう。できることなら私がいない時に、ご家族の前で目覚めて欲しい。そしたら……。
 そしたら、辛くない、から。
 目が覚めた時に彼に記憶があるのかもわからない。でも、もし目覚めた時に私がいたら、彼があの頃と変わらない表情で私の名前を呼んだら。
 きっと、耐えられない。
 お世辞にも良い人だなんて言えない私に、それでも彼が愛を囁いてきたなら、きっと私はどうにかなってしまう。罪悪感か、惨めさか、負の感情が私を苛んで、彼の前から逃げ出してしまってもおかしくはない。
「逃げ出すのは行けやせんねェ。せめてご自身が悪いと思った分は償ったらどうです?」
 分からなかった。
 その声がしたのはあまりに突然で、自分にかけられたものだなんて思わなくて、だから何を言ったのかなんて知らなくて。
「ま、ワタシの見立てではその必要も無いと思いますがねェ」
 きちんと言葉として耳に入ってきたのはそれだけだった。
 誰かが話している。けどおかしい。ついさっきまで、この道には私以外歩いている人なんていなかったのに。
 無視したほうがいい。でも気になる。何も気づかないふりして通り過ぎて、遠くから様子を伺おう。
「そんな悲しいこと言わないでくだせェ。ワタシはあなたに用があるんですよ」
 立ち止まって、しまった。
 さっきからこの道にいるのは私と謎の声の主だけだ。その彼が「あなた」というならそれは私のことだろう。
 そんな小学生でも分かる思考をゆっくり確かめなければならないほどには動揺していた。
 けれどその声に聞き覚えはない。初めて聞く声だ。だからこそ怖い。逃げ出したほうがいい。
 足を前に伸ばした、その瞬間。
「取り戻したい感情があるんじゃないですかァ?」
 宙に浮いた足が地面に着地して、でもそれを蹴ることはしない。
 どうしてそれを。追い詰められた犯人のようなことを思いながら後ろを振り返る。
 目を見張った。
 そこは間違いなく何度も通った道で、それなのに見たこともない屋台があったから。
 印象的なのは正面に向けて開いた4つの傘。左右に2本ずつ縦に並ぶその傘の間に声の主がいる。思ったよりずっと若い、ニヤニヤとした顔の貼りついた男。
「図星でしょう?」
 表情を変えずに私に問いかける。でもとても答えられない。一度も見たことのない屋台が、何十年も前からそこにいたような顔で、唐突に現れたのだから。
「いやァ、色んなお客さんの驚いた顔見てきやしたが、お客さんはかなり驚いてくれる方ですねェ。見てて愉しいですよ」
 彼は状況を飲み込めない私に何か失礼なことを言って話を続ける。
「初めまして。ワタクシ『梅雨屋』と申します。梅雨にまつわるものならなんでもござれ。現世には存在し得ないちょっと不思議なものまで取り揃えております」
 そう言って一礼してみせる。『ツユヤ』聞き慣れない単語に意味が分からない口上。私は置いてけぼりにされるばかりだ。
「さァて、お客さんはあまり長話は好きじゃなさそうですからねェ。さっさと本題にいきやしょう」
 ついていけない私のことを気にかけているのかいないのか、梅雨屋と名乗る男は見慣れない壺のようなものを取り出す。両手に収まるサイズのそれは見惚れてしまうような淡い青。
「こいつァ『雨の香炉』といいやす。こいつァお香と一緒に売っているんですがね、そいつをこいつで焚くと特定の雨の記憶を蘇らせてくれるんですよ」
 相変わらず何を言っているのか分からない。『アメノコウロ』という名前も聞きなれないけれど、『特定の雨の記憶を蘇らせる』というのも理解しがたい。ただ、梅雨屋と名乗る男は私のことは無視して『アメノコウロ』とやらの準備を進めている。
 ……逃げるなら今のうち、だろうか。
 なんとなく口上や説明を聞いてしまってはいたが、そもそも相手は不審者だ。今までの人生でこんな怪しい相手には会ったことがない。そうだ、冷静になれ。付き合ってやる理由なんてどこにもないだろう。
 少しずつ後ろに下がる。梅雨屋がお香に火をつけたところで踵を返して走り出そうとした、その一歩目が出る瞬間。
 鼻の奥をくすぐる香り。
 雨上がりのアスファルトとは違った香り。その香りを辿った先に、蘇る記憶。泣きだしたいほど愛おしいそれは、一瞬色づいた後、夢のように彼方へ消えてしまう。
「欲しくなった、でしょう?」
 背を向ける私に梅雨屋が問いかけてくる。こんなのはズルい。反則じゃないか。私は観念したように梅雨屋の方を振り返った。
 その透明な瞳が私を見つめている。
 ……無意識とはいえ何を言っているんだろう。梅雨屋の瞳は茶色いのに。でも、どうしてだろう。その何も見ようとしない瞳は、何もかもを見通すような瞳は、『透明な瞳』と言うのがピッタリくるように思えた。
「さァ、買うなら今のうちですよ」
 梅雨屋は元のニヤニヤ顔に戻って雨の香炉を差し出す。
 私は敗北宣言とばかりに雨の香炉を買い上げた。

***

 リラックスした状態の方が効果がある、と言われた通りにお風呂もご飯も歯磨きも、ついでに明日の支度も終わらせて、私はいよいよ雨の香炉を使おうとしていた。本当は帰ってからすぐ使いたかったけれど、雨の香炉を使ったまま寝るとその記憶を夢でも見れる可能性がある、と言うので寝る前まで我慢していた。とはいえ香炉なんて使ったことがない。ご丁寧に香炉を使う時に必要なものは全てセットで売ってくれたので出費はそれなりのものだったが、説明書までつけてくれたので良しとしよう。
 香炉に灰を入れて、お香に火をつけて立てる。言ってみればこれだけの作業だったけれど、酷く緊張した。灰はこぼしそうになったし、お香を持つ手は震えた。それでもどうにか真っ直ぐお香を立てることに成功して、私は布団で横になる。
 目を閉じて、感じるのはあの日の雨の匂い。パチパチと聞こえるのは雨音。瞼の裏に浮かぶ、あの時の景色。
 雨雲に覆われた空から真っ直ぐに落ちてくる雨粒たちは楽しそうに傘を鳴らし、肩を濡らす。
「相変わらずの雨だなあ。どうして僕らが遊ぶときには必ず雨が降るんだろう」
 懐かしい、声。視界の右端に見えるのはまだ動いている君。顔が見たい。けれど見れない。これは私の記憶だから、あの時の私が視線を動かさないと視界が変わらない。けれど、私の過去の感情が伝わってくる。君の隣にいるだけで心が弾んで胸の奥がぎゅっと暖かくなっている、私の感情が。
 夢を夢だと自覚しながら見ているような、不思議な感覚。現実の私が布団に寝転がっている感触も、足元が濡れている感覚も、両方が混在している。
「ねえ、聞いてる?」
 君の声がする。
「聞いてる聞いてる。そして分かってる。あんたが雨男だからでしょ」
 私の声は感情の割にそっけない。あの頃は浮足立っているのが当たり前だったから。どころかそれに気づいていないくらい。見ていて恥ずかしい。
「酷いなあ。事実だけど」
 他愛ない会話。当たり前の日々がいつまでも続くと信じていることにすら気づいていない会話。それが特別なことだなんて、一欠片だって思っていない。
 どうしてもっと話をしなかったんだろう。話さなくても隣にいるだけで安心だったからだ。分かってるけど。
 見ている過去は変えられない。今になって悔やんでも仕方ない。分かっていても、「どうして」と。その言葉が響いて止まない。
 視界が開ける。広い公園についた。雨の日だから私たち以外いない公園。
 向かい合う、二人。
 目が合ったそこに、君の顔。
 現実の私が涙を流したのが分かった。
 君が生きてる。今だって生きているけれど、そう、生き生きとしている。太陽が見えなくてもその目に光があって、口角が上がっていて、笑顔を形作っていて。
「やっぱり誰もいないね」
 なんて当たり前のことを話しかける。その声が、表情が、立ち姿が。見ているだけで胸を締め付ける。
「そりゃあね」
 私の返事は相変わらずそっけない。分かってない。その会話がどんなに代え難いものなのか。でもこの頃の私に今の現実を話したところで聞き入れもしないのは分かってる。
 何も知らない私たちがまた他愛ない話を始める。でも目の前の彼は妙にそわそわしていて。
 不思議に思う私に、今の私が思い出す。そうだ、この時。
「……どうしたの? なんか気になることでもある?」
「あのさ」
 彼は目を合わせない。そっぽを向いて頬をかく。
「その…あのね、えっと…」
 色々言葉を用意しようとしたのだろう。『しどろもどろ』という言葉がとても似合うくらいに口をパクパクさせて言葉にならない声を出していた。でも結局彼にはこの言葉しか思いつかなかったらしい。
「好きです」
 何度も泳いでいた目が意を決したようにしっかり私を見つめてその言葉を放った。
 そう。これは私が彼に告白された時の記憶。
 あの頃の私の胸が高鳴る。『高鳴る』なんて言葉じゃ足りないほど。心を満たしていた温かさが全身を駆け巡って飽和する。
「せっかくなら晴れた日にって思ったんだよ? でも晴れそうにないし……雨男だから」
 それに、と続けて彼は見たこともないくらい赤面して言った。
「もう、我慢できないくらい好きだから」
 それを受けた私の表情も赤面しているのが見えなくても分かる。顔が熱い。心臓が耳の横にあるんじゃないかと思うくらいドクドク言っていて、嬉しすぎて言葉を失っている。
「あの……何か言ってほしいな」
「えっあのっうん、そうだよね。えっと…」
 分かってる。言いたい言葉がある。それしか思いつかない。
 でも、言えない。
 言葉は喉元まで出ていて、口を開けて息が通れば言えるのに、言えない。
 君はこんな全身が震えるような緊張を乗り越えてくれたんだ。
 頭の中に何度も鳴り響く言葉を、君の目を見ながらなんて言えなくて、私は目を逸らしながら言った。
「好き……です」
 小さくて震えていて、決して強くない雨音にかき消されそうな声だったけど、君はちゃんと受け取ってくれた。
「ありがとう」
 今までに見たことが無いくらい喜びに満ちた笑顔で。
 あぁ、この笑顔だ。
 私が彼を好きになったきっかけ。横たわる私がとめどなく涙を流す。目の前で幸せそうにしている君が、ぎこちなく手を差し出す私が、今の私に懐かしい幸せを与える。
 閉ざしていたものが溢れて蘇ってくる。広がる雨の匂いは、ほんの少し変化する。
 雨と君との思い出が代わる代わる色づいていく。そのどれもが輝いていて、温かくて、どこまでも優しくて、安心感で満たされる。
 そうだ、私が彼を好きだったことに、きっと大した理由なんかない。
 ただ隣にいるだけで十分だった。何も話さなくたって、君が隣で息をしていればそれだけで本当に幸せだった。
 なんで忘れていたんだろう。いや、きっと違う。塞ぎこんでいたんだ。君への愛しさを思い出すたび、今が辛くなるから。現実を見るのが怖かったんだ。それで好きだった気持ちまで抑え込んで。
 ……馬鹿だな、私は。色づく思い出の二人はみんな幸せそうなのに、この幸福まで忘れていたなんて。
 今までごめんね。また明日、会いに行くよ。

***

 冗談みたいに白い病室で存在を主張するような花束と、持ってきたバラを入れ替える。花束よりは大人しいけれど、赤いバラがたった一輪咲いているのはそれはそれで目立つ。決意して持ってきたのは良いものの、思わず苦笑い。
 ベッドで横たわる君の表情は相変わらず動かない。物語みたいにこのタイミングで目覚めてくれたりしないかな、と少しは思ってしまっていたけれど、やっぱりそう都合の良いことは起こらないみたいだ。
「でも、待ち続けるって決めたから」
 今日はそれを伝えに来た。正直、昨日までの鬱々としていた気分の方が、今持っている感情よりも楽だったかもしれない。君のことが愛しくて、だから目覚めてほしくて、でもそれが簡単なことじゃないのは分かっていて、現実を見つめるのが辛い、今よりは。
 でも、決めたんだ。
 辛くても痛くても、それでも祈るって。また君が目覚めた時に、あの時みたいに笑ってもらえるように。我儘だけど、君が笑っている隣には私の居場所があって欲しいんだ。
 息を吸って、言葉を紡ごうとして、喉元に引っ掛かる。君に聞こえているわけじゃないのに緊張しているみたいだ。
 もう一度。息を吸って、吐いて、もう一度吸って。
「愛してるよ」
 あの日よりも震えていない声で言えた。相変わらず声量は小さいままだけど。
 待っているよ。ずっと。だからきっと戻ってきてね。
 君の頭をそっと撫でる。
 少し笑った、ような気がした。

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