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満天と星空と家族─梅雨屋目録

 お客さん、夜空を見上げることってありやすか? 最近じゃ星空が見えねェなんて地域もありやすが、この主人公のお嬢さんはそんな僅かな星明かりを頼りに生きてきたそうで。しかし梅雨ってのはいけねェ。見上げても空は雲に覆われているばかりでさァ。
 だからワタシが要り用ってね。
 さァて、お立合い。
 これより語るは願いか愛か、はたまた呪いか。梅雨が奏でる噺の世界へようこそ。

○ ○ ○


 小さい頃、お父さんに会ったことがある。
 私が5才だった頃に死んでしまったお父さんに、小2の時に会った。
 お父さんは突然目の前に現れて、私の名前を呼んで、それからまだ小さかった私を抱きしめた。私は何が起こっているのか分からなくて、ただ抱きしめられていたけれど、『大切な人は死後3年経つと幽霊になってやってくる』というあまりにも有名な話を思い出していた。
 お母さんは持っていたお皿を落として派手な音を立てていたけれどそんなことは関係ないとばかりにお父さんに抱きついていた。
 お父さんも、お母さんも、事情を飲み込めない私を置いて泣いていた。
 それからお父さんは言った。時間がないんだ、と。それから使える時間を全て使って私とお母さんのことをどれだけ大事に想っているかを語った。ごめん、を何度も間に挟みながら。そして最後に言った。「父さんは夜空に浮かぶ星の一つになってずっと見守っているよ」と。もういないはずのお父さんから紡がれる言葉の一つ一つを聴きながら、私は訳もわからずに涙を流していた。あの時は家族全員泣いていた。最後の最後、お父さんの身体がドラマみたいに光の粒になって消えてしまう間際に泣き笑いを見て、私は大粒の涙を零した。
 その話をすると、大抵の子は信じてくれる。幽霊になったおじいちゃんやおばあちゃんに会ったことがある子も少なくないから。信じられない、という子はいなくて、みんな“そういうことがあったんだ”という事にして受け止めてくれる。
 ただ、その話をするとみんなのお父さんの話が聞けなくなった。気を遣ってくれているのだろう。うっかりお父さんの話題をだすと“やっちゃった”という顔をして、ごめんねと言ってくる。
 私は別に構わなかった。むしろみんなのお父さんの話を聞きたいとすら思っている。私のお父さんならどうしただろうか、と想像できるから。5才までの少ない記憶の中からお父さんを想像するのが、私のお父さんとの過ごし方だから。新しい思い出を作れない代わりに私が出来ることだから。
 そうやって正直に伝えても、みんなから何となく向けられる視線に“可哀想な子”という成分が含まれているのは変わらなくて、中学にあがってからはお父さんが亡くなっていることを隠すようになった。
 悲しいかな。お父さんがいない、ということを隠していても意外と話は出来てしまう。そもそも話題に上がってこない場合が多い。家族の話をするにしても大抵は愚痴を聞くばかりで、その話題を振られても「うちはそういうの無いかな」と返してしまえば何事もなく会話は進行してしまうのだ。
 でも、そうやって会話をしていくと、まるで自分の中に初めからお父さんがいなかったみたいになっていって、それが悲しかった。おまけに記憶も薄れていく。大切で、もう一生その体験が出来ないと分かっている記憶でも、時間は残酷にその色を薄れさせる。私にはもうお父さんの声を思い出すことさえ難しい。何回も見たビデオの中のお父さんは確かにお父さんだけれど、“ビデオの中のお父さん”でしかないから。カメラに写っていないお父さんを思い出すのは少し難しい。
 そうやって記憶が薄れていく中で、それでもその存在の依り代のようになっているのが、星空だった。さすがに『星の一つになって』というのは信じ難いことだけれど、でもどこかからは見守っているのだろうし、じゃあそれはどこかと言えば、やっぱり空からなんじゃないかと思ってしまうから。
 だから、梅雨は嫌いだ。星が見えないから。
 勉強のやる気が出ない時、お母さんと上手くいかなかった時、私は決まって夜の散歩に出かける。そうして星を見上げて、お父さんのことを思う。きっとこう言ってくれただろう、と。
 だからこうして星空が見えないのはとても困る。幸い今は雨が降っていないけれど、私の拠り所がない散歩には大して意味がない。適当に歩き回ったら家に帰らないといけない。帰ったところで勉強する気もしないけど。せめて散歩が出来ただけでも良しとしよう。最近は雨続きで外に出ることも出来なかったから。とはいえ月明かりも見えない夜の中、どんよりとした空気に押しつぶされながらの散歩はあまり気分の良いものではない。思わず溜息をつく。
 目の近くに水が落ちた感覚。雨だ。降るとは思っていたけど、思ったより早かった。傘を差すほどでもないのが救いだ。
 と、思った途端に叩きつけるようなどしゃ降りの雨。一瞬で私の全身を濡らしていく。もういっそこのまま雨の中を散歩してやろうか。……いや、やめだ。お母さんになんて言われるか大体予想がつく。
 雨の中をバシャバシャと音を立てて帰る。せっかく外に出たのに星が見えないどころかずぶ濡れになるなんて最悪だ。しかもそんなに歩けていないし。天気を操る何者かがいるなら空気を読んで────。
「え?」
 足を、止めてしまった。
 一瞬、雨が止んだから。
 違う。
 雨が止んだんじゃない。急に軒先が出来たんだ。
 振り返ると、そこには屋台がある。
 一瞬、視界を掠めた屋台が。家から歩いて来た時にはなかった屋台が。
「どうも、こんばんは。お嬢さん」
 その屋台の店主らしき男が身を乗り出して挨拶してきた、らしい。
 あまりに突然のことにパニック状態だ。屋台が急に現れた? 何だそれは。誰に言っても信じてもらえないだろうし、私だって信じ難い。
「お客さんの驚く顔を見るのは愉快なもんですねェ。おっと失礼しやした」
 店主は何か失礼なことを言ってその顔に接客用と思われる笑顔を貼り付けて言う。
「初めまして。ワタクシ『梅雨屋』と申します。梅雨にまつわるものならなんでもござれ。現世には存在し得ないちょっと不思議なものまで取り揃えております」
 そう言われたところでどうしていいか分からない。逃げるべき? だって『梅雨屋』だなんて聞いたこともない。現世には存在し得ないちょっと不思議なもの? 何を言っているんだろうか。わからない、けれど。
 この妙に古びた屋台には『現世には存在し得ない』と言われても少し納得してしまいそうな存在感がある。
 ……いやいや、屋台から買うものなんてない。考え直せ。
「お嬢さん、雨の日にも星が見たいと思ったことはありませんかァ?」
 屋台に背を向けた私の耳元にそんな言葉が届く。また足が止まる。単純すぎると自分でも思う。いや、冷静になれ。まるで雨の日でも星が見える物があるみたいな言い方だけれど、そんなものがあるわけない。
「まァ、騙されたと思って見てってくだせェ。こいつァ『満天』って雨傘でさァ。こいつを通して空をみると雲が見えなくなりますんで、まァ試してみてくだせェ」
 騙されたと思って、なんてよく言う。今まさに私を騙そうとしているところだろう。雲が見えなくなる傘ってどういうことだ。……いや、興味を持つな。
「疑り深いですねェ。いいですよ。そこから見ててくだせェ」
 梅雨屋は黒い傘を取り出して私に見せつける。帰ればいいのに私はここから動かない。言われた通りに見ている。でも、見るだけだ。そう、雨宿りついでに。
 梅雨屋はその傘を屋台の中で器用に差す。その傘の内側がちょうど私に向くように。
 目を疑った。
「お嬢さんからは向こう側が透けて見えるでしょう?」
 そう、その通りなのだ。
 さっきまでその傘は黒かったはずなのに、ビニール傘のように向こう側が透けて見える。
「こっち側からじゃァ空を見せることはできませんから、そっちでお嬢さんが使ってみてくだせェ」
 梅雨屋は傘を畳みながらそう言って、私にそれを差し出した。差し出されたけど、とてもそれを受け取れるような心境ではない。状況があまりにも異常だ。突然現れた屋台に、怪しい店主に、黒いはずなのに透明な傘。受け入れられる方がどうかしている。
 でも。
「星が見たくはありませんかァ?」
 梅雨屋はそう言ってくる。
 その、透明な瞳で。
 ……何を言っているんだろう。瞳が透明であるはずがない。確かに店主の瞳は茶色だ。だけど、なんでだろう。その瞳は『透明』と言うのが一番いいように思えた。全てを見透かすような、逆に何も見ていないような。
 その雰囲気に呑まれたのだろう。私はその傘を手に取っていた。
 躊躇いながらも雨に向かって傘を差す。やはり内側から見ると透明で────
「あ」
 思わず声が出てしまった。
 雨音は鳴りやまないのに、傘の向こう側には確かに星が見える。試しに傘を降ろしてみるとそこには暗雲が垂れ込めている。
「……うそ。なんで」
「言ったでしょう? 現世には存在し得ないちょっと不思議なものまで取り揃えていると」
 梅雨屋は元のニコニコ笑顔でそう言った。現世には存在し得ないもの。確かにその通りだ。こんなものは存在するはずがない。
「その傘を今なら手にいれられますよ。さァ買いやすか?」
 雨の日も、星が見える傘。これがあれば梅雨を嫌う理由がなくなる。いつでも星を見上げることが出来る。どんな夜でも私の側に星が寄り添ってくれる。
 ……正直欲しい。けど。
「あの……私、お金持ってきてないので、買えません……」
 夜の散歩に出て来ただけの私は財布を持っていない。残念だけどこの場でこれを買うことは出来ない。
 でもそれを聞いた梅雨屋は、一瞬きょとんとした顔をして、また笑顔を貼り付けて言った。
「心配しないでくだせェ。ワタシはお代を持っていないお客さんに道具を売りつけるような真似はしやせんよ。お客さん、ポケットの中を探ってみてくだせェ」
 何を言っているんだろう。素直にそう思った。私が持ってきていないと言っているんだからあるわけが────あった。
 言われた通りに探ったポケットの中。染み込んだ雨水のせいでお札の形を保つのがやっとという様子のお金が、あった。悪寒が走る。一体どうして私も知らないお金の存在を会ったばかりの男が知っているんだろう。
「そう怯えないでくださいよ。ワタシについては考えるだけ無駄。現世には存在し得ないちょっと不思議な人だと思ってくだせェ。ま、人でもないんですけどねェ」
 怪しい。怪しすぎる。そうだ。突然現れる屋台に雲が見えなくなる傘。何を取っても異常じゃないか。大体、最初から当たり前のように『星が見たくないか』と聞いてくるけれど、それだってどうして知っているんだ。その話はよほど仲の良い子じゃないと知らないのに。
「だから、考えるだけ無駄だと言ってるじゃァありませんか。それよりどうしやすか? 言っときやすが、この傘はワタシしか売っていませんよ?」
 ……どうしよう。
 こんな不思議な傘、売っているのは彼しかいないだろう。それにこの屋台にだって何時でも出会えるわけじゃない、気がする。今まで一度だって出会ったことがないんだ。今回遭遇したのが奇跡みたいなものだろう。
 ……騙されてみるか。幽霊だっているんだ。こんな不思議なお店の一つや二つ、あってもおかしくないかもしれない。
「……買います」
「毎度あり!」
 私はよれよれのお金を渡して『満天』を手に入れた。

 家に帰ると、お母さんが小走りに部屋から出てきた。急に雨が降ってきたのに私がなかなか帰ってこないから心配してくれていたらしい。お母さんは私の顔を見て安心して、それから驚いた。「その傘はどうしたの?」と。私はついさっき会った梅雨屋の話と『満天』の話をした。でもお母さんは怪訝そうな顔をした。話をしながら思った。そりゃ娘が騙されたんじゃないかと心配になるよなぁと。一応騙されていないはずなのでお母さんと外に出て『満天』を実際に使って見せた。傘の形に切り取られた星空から雨が降ってくるのを見て、お母さんは目を丸くしてあんぐりと口を開けていた。それから私に言った。「その傘を人前で使うのはやめておきなさい」と。確かにこの傘を人前で使って説明を求められたらとても困るので、言われた通りにすることにした。
「でも、良かったわね」
 お母さんが言う。
「あんた、星空を見るの好きでしょ?」
「……え、バレてたの」
「隠してるつもりだったの?」
 少し微笑んで、お母さんは傘越しに空を見上げる。
 星よりも遠いどこかを見るように。
「お母さんもね、星を見るの好きよ。さすがに星になって見守ってるっていうのは信じてないけど、でもやっぱり見上げちゃう」
「……なんだ。同じだったんだ」
 目を合わせて、雨音の中で笑い合った。それから傘の中の星空を見上げる。
 ねぇ、お父さん。これでいつでも家族みんなで一緒にいられるね。

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