先生と元生徒が会っただけの話

 太陽の光が柔らかく差し込む職員室。理容室で”清潔感のある感じで”と頼んで切ってもらった髪をかき乱しつつ、教師は小テストの採点を行っていた。そのペンが次々と丸を描き、時にはチェックを入れ一言添えてやっているのをぼんやりと見つめる少女が一人。
 先生は誰に対しても丁寧だなあと考えつつ、向かいの机で頬杖をつき両手で顔を支えている。
 その視線に耐えかねたように軽快に動いていたペン先が止まる。
「さっきから気になるんだが」
 教師はしっかりと少女の眼を見て言うものの、少女は気づいていないかの如く表情を変えない。
「……見えてるんだがって言った方が良いか?」
 その言葉を聞いて少女は固まった。元々動いてなどいなかったが、表情が強張った。
「……えっ」
 思わず言葉にもなっていない音がこぼれ出てしまう。その様子を見ると教師は手を額に当てて深々と溜息をついた。
「変わらないな、お前は。随分前も俺の手元ばかり見て自分の課題はまるで進んでなかった」
 懐かしむように、あるいは呆れたように教師がそう言うと、少女は『本当に自分は見られていたんだ』と認識し、その顔はみるみるうちに赤くなり、机の下に沈んでいくようにその姿を隠した。
「むしろどうしてバレないと思った」
 羞恥に襲われている少女を追撃するかのような一言。意を決した少女は立ち上がって教師と顔を合わせる。
「だって! そんな当たり前みたいに……もう!」
 しかしその口からこぼれる音たちはほとんど意味を持たない。教師はやはり溜息をつく。
 変わらず顔を真っ赤にしながら少女は続ける。
「だいたい、もっと何か……あるでしょ普通!」
「普通あるのはまず挨拶だと思うが? 一言も言わずにいきなり職員室に来て目の前に座ってぼーっとするやつがあるか」
「それはっ……!」
 少女はそもそもこの事態を想定していない。そのため挨拶もなしに目の前でぼーっとしていたわけだが、教師が言う事ももっともであり、少女は何も言い返すことが出来なかった。
「まあ、お前が望むなら普通にやろう。……久しぶりだな」
 宣言通りに”普通”にやるので少女はまだ納得のいかない様子だったが、諦めて教師に合わせることにした。
「……お久しぶりです。先生ってホント変わりませんね」
「そうか?」
「誰に対しても“先生”のまま接してくれるのは良い所だと思うけど今回のはやりすぎだと思います」
 少女がそう言えば教師はそっぽを向いてしばらく空中を眺めたあと
「褒められたことにしておく」
 と返した。
「先生らしい」
 少女は呟く。
 それに気づいているのかいないのか、教師はこう投げかけた。
「あー、こう聞くのも変かもしれないが、元気にしてたか?」
 言葉を理解するなり少女は口元に手を当ててクスクスと笑う。
「うん。先生に会ってた時よりずっと元気にしてたよ」
 そう言うと教師は優しく目を細めて
「そうか。それは良かった」
 と返した。その声が、表情が、存外優しくて少女は目を逸らしてしまう。
「先生の方はどうなの。元気してるの?」
 目を逸らしたまま言ったため、少女は教師がどんな表情をしていたのか分からない。
「ああ、相変わらず忙殺されてるよ」
 ただ、その声は本当に疲労の滲むもので、少女は教職の大変さを思った。
 忙殺されている、その言葉は本心から出ているもので、だからこそ自分にしてくれたことがどれだけありがたいものなのかを実感する。
「先生、今も私にしてくれたみたいなことしてるの?」
「いや、最近は入院生活をしてるような生徒は受け持っていないからな。学校自体嫌だからって何とか保健室に通ってもらってる子はいるが」
「……先生も大変だね」
「俺より生徒の方が大変だろ」
 教師はさらりとそう言ってのける。
 少女が入院生活を送っている時、つまりこの学校に通っている時には、わざわざ多忙の合間を縫って見舞いに来たのがこの教師である。少女の“せめて自分の担任が受け持っている教科だけでもちゃんと勉強したい”という意思に答え、彼女専用の課題を用意するなど、少女にとっては恩を返しきれない存在であった。
 だから、分かる。教師は教師でとても大変なのだと。けれどこの人は本心から“生徒の方が大変だ”と言うのだ。少女は教師のこういうところが好きだった。
自分の知っている時から全く変わらない教師の様子に少女は笑みを浮かべていたが、ハッとあの時のことを思い出して少し曇った顔になる。
 そのことに気づいて教師が不思議そうな顔をしていると、少女は思い切ったように切り出した。
「今言うことじゃないかもだけど、でも言っておきたいから。その……来てくれてありがとね」
 目的語の部分が省かれていたが、教師には十分伝わったらしい。いつも通りに、何でもない顔で
「あぁ。当然だ。むしろ参加させてくれた親御さんには感謝が尽きない」
 と返す。
 曇る表情の中に少しだけ穏やかな感情を混ぜて少女が言う。
「私、本当に嬉しかったんだよ。先生はあくまで“先生”だけど、でも友達みたいなところもあるからさ。ちゃんと挨拶しに来てくれたのは嬉しかった。……まあ、ほとんど形式的なことだったから私には意味もよくわからなかったんだけど」
 えへへ、と笑う少女に対し、教師は溜息をつくが
「まぁ、そんなもんか。立場を考えれば俺もそうなると思うよ」
 と言いながら納得していた。
「向こうの生活はどうなんだ? それこそ友達とか出来たのか?」
 途中だった採点をしながら教師が問う。
 少女は少しばかり話の逸れた質問に一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべながら答えた。
「うん。出来たよ。結局学校に通ってるのって私と同じような状況だった子達ばっかりだからさ。結構すぐに打ち解けた」
「……そうか」
 彼女と同じような状況、その意味が分かる教師としては素直に喜びづらいところだったが、当の本人が幸せそうに笑っているので、気にしていることは表に出さないことにした。
 代わりに別の疑問が浮かぶ。
「というか、そもそも学校があるのか?」
「あっそっか。分からないよね。通いたい人たちが通えるの。割と来る人多いよ」
「そうか。まぁわざわざ課題を要求してくるようなお前だからそりゃ通うか」
「うん。先生の科目は一応成績良いよ」
 得意げに言う少女に教師も思わず頬を緩める。
「そりゃどうも」
 教師が手を伸ばし、少女の頭を撫でようとするものの、その手は少女の身体をすり抜ける。
「……ありがとう。でもごめん。触れることは出来ないの。やっぱり幽霊だから」
「……そうか」
 教師はハッキリと覚えている。少女が病弱ながらも生きていた時、見舞いのたびに課題を持っていっては病室で特別授業をしていたこと。身体が耐えきれず少女は天に召され、葬式を執り行ったこと。
 自分があまりにも無力だったことを痛感したこと。
「そんな顔しないで。誰にも、どうにも出来なかったんだから。……悔しいのは、みんな一緒。私も含めてね」
 少女は未だ優しい光を与え続ける太陽に目を向けながら言う。
「でも、だから向こうで頑張ろうって思った。それは先生がいてくれたからっていうのも大きかったよ。先生が私のことを当たり前に生徒として見てくれたから、『病弱で可哀想な子』じゃなくて『私』を見てくれたから、すぐに転生しないで『私』が出来たはずのことをしようって思えた」
 その目から涙が溢れ、一筋頬を伝う。
「先生に会えたら、聞こえなくても感謝するつもりだったの。まさか先生が視える人だなんて思わなかったけど……ほんと、もうちょっとびっくりしてくれても良かったのに」
 窓辺から教師に向けた目は潤んで、涙は流れ続ける。
「俺の信条なんだよ。『誰にでもあるがままに』」
 少女の瞳を見て自分も涙をもらいそうになりながら教師は必死で堪える。
「……うん。そうだね。それ先生の良いところだと思う。これからもそうしてね」
 沈黙が降りる。少女の身体が透き通り、光の粒へと変わりつつあった。別れが近いサインだと、本人も幽霊を見送ってきた教師も知っている。
 自分の身体が足先から消えていくのを見ながら、少女は最後の言葉を紡ぎ出す。
「先生、ありがとう。病弱な私を諦めないでくれたのは先生だけだった。両親ですら、ううん、両親だから、私に普通の生活をさせようとは思ってなかった。お見舞いに来てくれたのも、勉強させてくれたのも、先生だけだったよ。だから、感謝してる。心の底から。おかげで夢を持てた。現世ではそれは叶わなかったけど……でも、向こうの世界で叶えようかなって思ってる」
 もう身体の半分が消えてしまってからも少女は言葉を紡ぎ出す。
「私の夢はね、先生みたいな先生になることだよ」
 教師の頬に耐えきれず一筋の雫が溢れる。
「先生みたいに、誰のことも見捨てない先生。それでいて、“普通”を強制しない先生。その子のあるがままを受け止められる先生……そんな先生に、なりたい。ううん。なってみせる」
 光の粒子が少女を包み込む。
「その姿を先生に見せられないのは残念だけど……でも、私が頑張ってるってこと、覚えててくれたら嬉しいな」
 少女の顔が、消えようとしている。
「ありがとう、先生。私、頑張るから。先生も頑張ってね。元気に長く生きてね。先生ならきっとみんなに好かれる先生でいられる──」
 口元が光の粒へと変わってしまい、言葉はそこで途切れてしまった。
 少女はせめて目元で笑みを形作る。その笑みを見れたのは一瞬のことで、少女は光の粒になり、空気に溶けるように消えてしまった。
 教師は少女の姿を最後まで見届けた。瞳が潤むせいで視界が歪み、最後には光がぼやけているばかりだったが、笑みだけははっきりと見た。
 太陽の光だけではない何かが優しく職員室の空気を温める。
 教師は涙を拭って、窓越しに空を見上げる。
 そこへドアをガラガラと開けて女性の教師が入ってきた。泣き腫らした目をしている教師と目が合うと、ギョッとしたように表情を変えて
「先生? 何かありましたか…?」
 と問いかけた。
 教師は空を見つめて言った。
「いえ。ただ生徒と会っていただけですよ」


あとがき
 思ったより早くここに作品を投稿することになりました。夕緋と申します。お楽しみいただけたでしょうか。
 この作品はなんと私が見た夢から着想を得て作りました。私の中ではよくあることです。夢では私が幽霊で、担任だった先生を見ていて、「見えてるぞ」的なことを言われて私が赤面していました。まあ確かにお世話になった先生ではあるのですが、幽霊になってまで会いに行くかと言われればそれは違う。夢らしい夢でした。
 さて、幽霊になってまで教師に会いに来た少女は私が思っていたよりも後半に畳みかけてくれました。3000字少し超えるくらいの文章量のつもりが4000字ぐらいになっていた。不思議。
 ところで皆さん少女の正体には驚いたでしょうか? 私は書きながらも「途中でバレるんじゃないか、いやバレるな」と思っていました。幽霊だという事に驚いていただけていたら嬉しいです。幽霊だと知ってから読むと色々納得して、「いや教師よ、もっとなんか反応があっただろ」とツッコミたくなるかと思います。私もあの人は肝が座りすぎだと思います。
さて、長々と話してしまいそうなのであとがきはこの辺りで。最後の最後に執筆配信のアーカイブを載せておきます。興味がありましたら是非。またフラッと書き込むかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。
 それでは、またいつかお会いできることを願って。

https://txtlive.net/lr/1657452200343/s1658580758439

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