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影落ちと私の正解─梅雨屋目録

 お客さんは人付き合いを面倒に思ったことってありやすか? まあ、あるでしょうねェ。面倒に思わない人の方が少ない。そういう人たちは人付き合いの才能ってやつがあるんでしょう。
 じゃあ多くの才能のない人はどうするんですかねェ。不満を抱きながらどうにか”正解”を探すんでしょうが、その”正解”ってやつが分かるとしたらどうです?
 そういう人こそ“人付き合いの才能”があるんじゃァないかって?
 残念。この物語のお嬢さんにあったのは“人付き合いの才能”ではなく”正解を見つける才能”だったんでさァ。その場でどう振る舞えば良いのか分かることとそれを自らやりたいと思えるかは別の話ってことですよ。
 望まない”正解”が分かってしまう、”正解”を強制されたお嬢さんは一体どんな運命をたどるんでしょうねェ?
 次の物語はそんなお話でさァ。
 さァ、これより語るは願いか愛か、はたまた呪いか。梅雨が奏でる噺の世界へようこそ。

○ ○ ○

 起床。朝食。登校。授業。昼食。授業。帰宅。勉強。入浴。夕飯。勉強。就寝。
 これと歯磨きやら洗顔やら細かいものを一定の時間間隔でこなしていれば“良い”。何も考える必要なんてない。そうすべきと言われた行動をそのままなぞるだけ。そこに私の意思なんて介入しないし、そもそも介入するような私の意思なんてない。お母さんが言う通り、先生が言う通りにそれをこなして、ついでに友達も作っておけばそれなりの生活が送れる。
 上手くいかないのは私の意思を求められた時だ。「どこがいい?」「何をしたい?」「何が好き?」この手の問いには困ってしまう。そんなものは何だっていいから。私に聞かなくていいから勝手に決めてくれ、とそんなことを言えるわけもなく、私はその時の“正解”らしいことを探してそれを答える。
 いつだってそうだった。友達と出かけて昼ご飯に悩んだ時も、読書感想文を書く時も、母が決めたこの学校に通うための面接の時だって。私の意思なんてそこになくて、そこにはただ“良い子”らしいことを答える私がいるだけ。
 だから進路調査票にもそれらしいことを書いた。母が選んだ少し高めの偏差値の学校を並べて、特定の分野について研究したいから、と理由をつけて、あとは提出するだけだ。
 けれど、私はそれをカバンの中にしまったままだった。
 分かっている。いつものようにホームルームが終わった後に、担任に紙を渡せばいいだけだ。でも私はそれをクリアファイルから出そうともしない。クリアファイルを出して、進路調査票を眺めて、そのまま仕舞ってしまう。そうしていつまでもそれを出さないまま一日を過ごして、今日も帰り道を歩いていた。
 梅雨時らしいどんよりとした曇天は私の心まで鬱屈とさせる。今日も朝から帰りまで進路調査票と一緒だ。早くそれを出してしまえばいいだけなのに、こればかりが上手くいかない。一体どうしてなんだろう。
「そいつァ、お嬢さんがそれに納得していないからじゃないですかねェ」
 足が止まった。
 突然に聞こえた男の人の声に理解が追いつかなかった。後ろから聞こえたその声。でもおかしい。私の後ろには誰もいなかったし、通り過ぎた時にだって声の方向には誰もいなかった。
 思わず振り返って、そして見てしまった。
 その、あるはずのない屋台を。
「お嬢さんはあんまり驚いてくれないんですねェ。まァ、そんな気はしましたが」
 充分驚いている。さっきまで何もなかった場所に、振り向いた途端、屋台が出来ているのだ。驚かない方がどうかしている。しかもその屋台は今どき珍しい木製のもので変色も酷く、何年も前からそこに建っていたかのような顔をしている。その屋台の主であろう男性もまた、そこにいるのが当たり前のように私に話しかける。
「初めまして。ワタクシ『梅雨屋』と申します。梅雨にまつわるものならなんでもござれ。現世には存在し得ないちょっと不思議なものまで取り揃えております」
 どうも自己紹介をされたらしいけれど咄嗟には理解できない。ただ、確かに屋根に取り付けてある看板には筆文字で『梅雨屋』と書いてある。屋台の正面の両端にも傘が縦に並んでいて、梅雨にまつわるものを売っているというのは理解できた。ただ、現世には存在し得ないちょっと不思議なものとは何なのか……。いや、待って。
 まさか、私はこの屋台に興味を持っているの? こんな明らかに怪しい屋台に。絶対に無視した方が“良い”相手を前に。
 でも、私はここを動かない。頭では分かっているのに。
「お嬢さんに必要なものを用意してますよ。まァ、用意したのはワタシじゃなくて姐さんで、用意したというよりは押し付けられた、と言う方が正しいんですがねェ」
 明らかに接客用の笑みを貼り付けて意味の汲み取れないことを言う店主。私はその言葉を聞いてしまっている。思考が叫んでいる。ここを離れた方が良い。どう考えても怪しすぎる、異常事態だ。それなのに私は店主の言葉に誘われるように屋台の前へと歩き出す。思考よりも強い何かがその屋台に惹きつけられている。
 私が自分の行動に驚いている間にも店主は事を進める。何やら黒くて細長い箱を取り出して私の目の前に置いて見せた。
 私が屋台の目の前で立ち止まったのを確認すると、梅雨屋はゆっくりとその箱を開けた。中には白い傘が入っている。
「こいつァ『影落ち』って日傘でさァ。日傘ですから影が落ちるのは当然なんですがねェ? こいつは心の影まで落としちまうんですよ」
 ……意味が分からない。心の影を落とす? 簡単な言葉で形成されているはずの文章が理解できない。
「まァ、使ってみればわかりやすよ。これがお嬢さんに必要なものだってことが」
 梅雨屋はそう言って私に白い傘を差しだす。
 断ればいい。店主は屋台の中にいて私をすぐに追いかけられるような状況じゃないから逃げればいい。そう思っているのに私は傘を手に取る。『心の影』その響きに惹かれるように。
「そいつを開いてやって、影を見てくだせェ」
 導かれるように手が動く。そのレースの縁取りが美しい傘を開いて、影を見る。私と傘の影が重なって形を作るその中に、何か文字が書いてあるのが見える。その意味を認識した途端。
 私はその傘を閉じていた。
「ようやく驚いてくれやしたねェ」
 梅雨屋は影を見つめる私を見てニコニコと笑っている。影の中からは文字が消えている。その文字が現れる奇妙さよりもずっと、その文字自体が表す言葉の方が私には衝撃的だった。
「安心してくだせェ。その心の影はお嬢さんにしか見えねェし、傘を開いている間しか見えやせんよ」
 未だに影を見つめ続ける私に梅雨屋がそう言う。心の影が自分にしか見えないと聞いて、言われた通り安心してしまった。……安心してしまった? まるでこれからこの傘を使い続けるみたいな言い方じゃないか。
「買う、でしょう?」
 梅雨屋は私を見つめてそう言った。
 その、透明な瞳で。
 ……いや、透明であるはずがない。その目は確かに茶色く色づいている。だけど、なぜだろう。その瞳は『透明な瞳』というのがしっくりくるように思えた。何もかもを見透かすような、何一つ映さないような。
「言ったでしょう? お嬢さんに必要なものを用意していると。欲しかったんでしょう? 自分の欲求が分かるものが。そういう意味ではそいつァ優秀ですよ。ちっと素直すぎるくらいで」
 梅雨屋は試すような視線で私を見る。
「さァ、どうしやすか?」
 けれどその言い方は答えが最初から分かっているようで。
 私は思考よりも強い衝動に駆られて『影落ち』と名のついた日傘を買った。

***

「行ってきます」
 少し微笑んで、声色も誇張しすぎない程度に高めに、“いつもの”行ってきますを再現して家を出る。いつもと違うのは日傘を持っていること。この日傘の存在に気づいたとき、お母さんはビックリしていたけれど、友達に貰ったことにしたら喜んだ。「あなたにもやっと少しは美意識のある友達が出来たのね」と。
 外は梅雨にしては珍しく青空が広がっている。影もしっかりと落ちていて、これなら『影落ち』のデビューに相応しい。
 傘を差す。影が落ちて、その中に文字が浮かび上がってくる。
『もう少し寝たかった』『学校なんて行きたくない』『早く楽にならないかな』
 その言葉たちは私が書く字にそっくりで、他の影と重なると消えてしまう。消えては浮かび上がるその言葉たちはどれも消極的だ。心の影だからそれは当たり前なのだろうか。自分のことだというのにどこか他人事だ。私にはこの言葉たちが自分の心から生まれているものだとは信じ難い。
 けど。
 梅雨屋の前で見た、あの影は動揺を隠しきれないくらいに本物だった。だからこの言葉たちもそうなのだろう。
 それに。
『あの人何偉そうなこと言ってるんだろ』
 その言葉には、真実味がある気がした。
 私は梅雨屋から『影落ち』を買ってから今まで、会話した相手が母しかいない。だから『あの人』というのはきっとお母さんのことなのだろう。ただ『偉そうなこと』というのは何のことだろう。『少しは美意識のある友達』というやつだろうか。それともテストの結果を伝えたら『私の子だから当然ね』と言われたことだろうか。家を出る前に『今日も上手くやるのよ』と釘を刺されたことだろうか。わからない。わからないけれど
『別にあの人だって大した人じゃないのに』
 影の中にはそんな言葉が浮かぶ。どうも私は母のことを思ったより嫌っているらしい。おかしいな。今日だってちゃんと気に入られるように受け答えをしてきたのに。
『母がいなくたって生きていければいいのに』
 影が落ちる。私の“心”を主張するように。ただ、その言葉には少しばかり心臓が嫌な音を立てる。それと同時に口角が少し上がる。そのことにも驚いてしまう。これは一体どういう感情なのだろう。明らかに思わない方が“良い”ことを前にしてほんの少しでも笑ってしまうなんて。
「おはよっ!」
 唐突に声をかけられて肩が跳ねる。影ばかり見ていたせいで前から友達が来ているのに気づかなかった。
「ちょっと、ビックリしすぎじゃない?」
 彼女はそう言って笑っている。私は梅雨屋がこの影は他の人には見えないと言っていたことを思い出して安心しつつ、彼女への言い訳を口にする。
「ちょっと考え事してて気づかなかったの。ごめんね?」
 いーよ、いーよ! と笑って他愛のない話を始める彼女。その呑気さに救われる。チラリと影を見た時に飛び込んできた『めんどくさいのが来た』という言葉をしっかり踏みつけて。
 私は笑顔で話を続ける。

***

 帰宅部の私は早々に学校を出る。空には雲が出て来たけれど影が落ちないほどではない。一応昨日梅雨屋がいたところに注意はしてみたけれど、案の定いなかった。まあ、いたからといって話すこともないけれど。
 『影落ち』を差す。ほどなくして影の中に文字が浮かび上がる。
『同じ話何回するの』『別になりたい将来なんてないんだけど』『あの子に興味はないのに』『仕方なく付き合ってるの分からないのかな?』
 学校に対するものより友達に対するものの方が多い。朝に見たものより攻撃的だ。私はこんなことを思いながら友達の話を笑顔で聞いていたのか。性格が悪い。客観的にそう思う。……ただ、主観の私はそうでもないらしい。影を見て、やはり口角が上がっている。悪口を見て、私の行動に意思が伴っていないのを確認して笑っている。
 どうしてだろう。純粋に疑問だ。
 ……やっぱり私の意思じゃないって確認ができるから?
 皆の前で笑うのも、耳障りの良い言葉を並べるのも、自分の本心じゃないって確認ができるから?
 ……そういえば、言っていた。梅雨屋が。これは私の欲求が分かるものだと。それを私が求めていると。それは、これが私の本心が分かるもので、それを私が求めているという意味だったんだろうか。どこまで見透かしていたんだろう。気味が悪い。
『他人のことなんてどうでもいいのに』
 影が落ちる。私の本心が可視化される。いつも人のことを気にして、その場の“正解”は何なのか考えて生きて来た私が、その“人”のことをどうでもいいと言う。それを見て、笑っている私がいる。
 この傘が私の本心を教えてくれるというのなら、私がそうやって『どうでもいい』のに“正解”らしきことを求めてしまう理由を教えてくれないか。
『正解なんて初めから何でもよかった。拒絶されなければなんだって』
 拒絶、されなければ。
 ああ、そうか。だから私はいつも行動の基盤を人任せにして“望まれるような振る舞い”を。
 納得してしまうのが悔しい。梅雨屋のあの貼りついたような笑みが思い出されるから。けれど、それよりずっと感心する。もう十何年もやってきて理由も忘れてしまったようなことを、こうも簡単に思い出させてしまったんだから。
 影に向けて笑いかける私がいる。他の人から見れば気味が悪いかもしれないけれど、今は気にするような他の人もいないから、良いか。

***

 しばらくは梅雨らしく雨の日が続いた。じめっとした空気や私の服を濡らしていく雨よりも『影落ち』を使えないことが私を不機嫌にさせた。試しに自分の部屋で『影落ち』を差してみたが、LEDの光で落ちた影では心の影は現れなかった。どういう仕組みなのか、太陽の光が必須条件らしい。この時期だと雨が降らなくても影が落ちるほど晴れる日は少なく、結局私が『影落ち』を使うことが出来たのは初めて使った日から6日経ってのことだった。
 その間、私は傘を使いたくてたまらなかった。母に自分の理想を語られた時も、先生に進路調査票の提出を急かされた時も、友達に愚痴を聞かされた時も。私はその時の“正解”らしいことを答えたけれど、本心では何と思っているのかが気になってしかたなかった。
 だから、やっと晴れたこの日はお母さんに「やけに嬉しそうね」と言われるほど喜びが滲み出ていたらしい。「今日は良いことがあるの」といつもよりも声を張って言っておいた。
 外に出ると湿気を含んだ暑さが身体にまとわりつく。日差しも強く、今日は気温がかなり上がりそうだ。でも憂鬱ではない。『影落ち』を使えるから。
 早速青空に白い傘を広げる。
『苦しかった。いつものことだけど』『どうしてみんな愛想笑いだってわかんないのかな』『何様のつもりなんだろ』『どうして学校に行かなくちゃならないんだろ』
 今まで差していなかったからか、その内容に統一性は無いけれど、影は前に見た時よりもその濃さを増しているように思う。それは差していない期間が長かったからか、私が強くそう思っているからなのか。この傘の仕組みが分からないから何とも言えないけれど、それはどちらでも良かった。
 私はこの影を見て、思いのほか気分が高揚している。
 自分のネガティブな面を見てテンションを上げるというのは違和感があるけれども、事実、私は笑っている。今までにないほど穏やかに、心から。
 分かってくれるんだ、と。心の影ではないところから声が聞こえる。私の影にはならない心の部分からだろう。心の影は私から生まれているのだから、理解者と言うよりは本心そのものなのだけれど、でもこれを見ている私は影を理解者だと感じた。私が我慢していることを、無理していることを、分かってくれるんだと。
 心の影を見ていると胸の奥が温かくなるような気がする。愛おしいという感覚に近いのかもしれない。分かってくれる、ということがこんなにも嬉しい。だから、今は心からの笑みを浮かべられる。
 たとえ『めんどくさいの』が来ても。
「おっはよー!」
 友人は今日も朝からテンションが高い。
『うるさい』『ウザい』『ほっといてよ』
 影を視界の端に入れながら私も挨拶を返す。
「あっその日傘前も使ってたやつだー!」
 素直に驚く。覚えているとは思っていなかったから。
「よく覚えてたね」
 見開かない程度に目を開けて、感心した声を出す。すると彼女は得意げに笑って言う。
「だって日傘使ってるの珍しいんだもん! お気に入りなの?」
 まだ2回しか使ったことはないけれど、この傘には既に特別な思い入れがある。お気に入りと言っても過言ではないだろう。
 目を逸らして、少し口角を上げて若干照れたように。
「うん。お気に入り」
『早く学校着かないかな』『わざわざ登校する時間合わせなくていいのに』
 目線を逸らした先には心の影が落ちている。私は友達を嫌っている。けれど彼女から見て“嫌なやつ”にならないように気を遣っている。
「よく見ると刺繍とか細かいんだねー。ちょっと貸してくれない?」
「……え?」
 心の影を見ていたのと、単純に意味が理解できなくて反応が遅れた。彼女は何も難しいことは言っていない。ただ傘を貸してほしいと言っただけだ。
「もっとよく見てみたいんだ! お願い!」
 ただ、その単純な言葉でさえ理解するのに時間がかかった。そんなこと想定していなかったから。
「それは……ちょっと」
 目一杯に困っている感じを表現しながら考える。これを渡したらこの子の影が落ちてしまうんじゃないだろうか。
「あー、ダメ? なんで?」
 なんで? それは、この傘の正体がバレたら気味悪がられるから。……本当にそう?
「ちょっとだけだから! いーじゃん、お願い!」
 違う。これを渡したくないのは私がこの傘を本当に大事に思っているからだ。人に触らせたくないくらい。
 彼女の手が『影落ち』に近づいていく。
 思わず傘を彼女の手から引き離して、叫ぶ。
「触らないでッ!」
 私も彼女も足を止めて、何も言えずに立ち尽くす。
 自分でも、ビックリした。まさかこんな声が出るなんて。
「……あ、ごめん。本当に大事なんだね。ほんと、ごめん……」
「あ……。うん。こっちこそ、大きい声出してごめん」
 それは、本心だったけれど。
『何考えてんの』『無神経』『信じられない』
 心の影にはそんな言葉が浮かぶ。
 気まずい空気を払拭したいのだろう。彼女は焦った様子で他愛ない話を始める。その言葉に適当に相槌を打ちながら考える。
 心の影は私の心の一部だ。それが全てではない。だから、謝罪する気持ちも本物だ。けれど、影だって本心には違いない。彼女のことを『無神経』だと思う気持ちは本物なのだろう。
 なら、どうして私は彼女に笑みを浮かべているのだろう。もう許したよ、というふりをしているのだろう。
 それが“良い”から。“正しい”から。そのはずだから。
 『友達』と喧嘩をしてはいけない。したのならすぐに謝って仲直りしなければいけない。そんな小学生みたいな基準に則って。彼女のことが好きなわけでもないのに。
 それでも拒絶されたくない?
 私は許せていないのに。今も心の影には彼女への悪口が浮かび上がっているのに。
 “正しい”方を、“望まれる”方を選んでいる。でも望まれるって誰に? まさか目の前のトモダチに?
『こんなこと気にして馬鹿みたい。どうして私は自分の好きなようにできないんだろ』
 ドクン、と全身が鼓動を打ったような感覚。自分の好きなようにって、なんだろ。
 今まで、“正しい”方へ向かおうとしていたのは、“望まれるように”あろうとしていたのは、そうするのが好きだからじゃない。それが自分の意思でないことは何回も確認している。じゃあ、“望まれるように”あろうとしたのはどうして? 拒絶されたくなかったから。母に。
 それって今もそうなのだろうか。いつも偉そうに私に過度な期待を寄せる人に、それでも私は……。
 今、なんて思った?
『いつも偉そうに私に過度な期待を寄せてきて』
 影が落ちる前に、そう思った?
「……ふふっ」
「……え、どうしたの?」
「ううん。別に、何も」
 なんだ。私って良い子じゃなかったんだ。

***

 起床。朝食。登校。授業。昼食。授業。帰宅。勉強。入浴。夕飯。勉強。就寝。歯磨きや洗顔。人間関係の構築。模範的な立ち居振る舞い。
 それが“正しい”ことだと思ってた。そうすべきだと思ってた。でも、どうだろう? その中に私のやりたいことなんてあっただろうか。
 夜はもっと寝たかったし、トモダチは独りになると色々と面倒くさいから欲しかっただけ。自分から望んで学んだことなんて1つもないし、何ならお風呂に入るのだって面倒だった。
 やるべきだからと思ってやってきた、そのほとんどは私がやりたいことなんかじゃない。今やそれをすることに意義を感じられない。だって所詮は否定されるのが怖かっただけだから。母に拒絶されて、父のように追い出されるのが怖かったから。だから望まれるように、間違わないように行動して。それで私に起こったことといえばそれこそ“否定されない”程度のものでしかない。今、この瞬間、私にとってあの人は必要? どうしても求めてもらわないといけない?
『どうでもいい』『1人でいたい』『もう気を遣うのはうんざり』
 これが私の本心。私の望みそのもの。
 もう気を遣うのはやめる。私がやりたくないから。それでクラス内で孤立したって私がそれで良いんだから“良い”じゃない。母が拒絶してきたって構わない。そしたら父のところに逃げ込めば良い。悪いようにはしないだろう。そうだ。今から父のところに行ってしまおうか。どうせ今日は学校をサボっているんだから。
 ああ、少し楽しくなってきた。これからは私がやりたいと思えることだけやろう。いいんだ。どうせ私は最初から良い子なんかじゃなかったんだから。
 結構ドキドキした割に学校をサボるのは簡単だった。いつものように登校するふりをして、学校へは行かずに駅の方へ向かう。駅のトイレで持ってきた私服に着替えて、制カバンを大きなバッグの中に隠してしまえば見た目から“高校生”の要素はなくなる。せめて大学生くらいには見えるだろう。それから母の職場がある方とは反対方向へ向かう電車に乗って適当な駅で降りる。万が一見つかると面倒なことになるから。学校にも休むと連絡を入れておいた。母のところに連絡がいかないように。とはいえ、それらを終えると特にしたいことも行きたい場所もなく、私は散策中に見つけた公園のベンチでぼーっと座っていた。
 夏が近づいてさらに青くなっていく空、気にすることなんてなさそうに吹き抜ける風、誰もいない公園、そこで日傘を差して座っている私。少し不自然だろうか。まあいいや、そんなこと。
 問題は父が帰るまでやることがないことだ。あまりにも暇。ずっと公園に座っているわけにもいかないけれど、行きたい場所も特にない。それっぽく映画でも見に行こうか。今何やってるのかも知らないけれど。
 スマホを取り出すと通知が届く。一瞬母かと思って嫌な汗をかいたが、違った。トモダチからの心配の連絡だ。そういえば彼女には休むことを伝えていなかった。でもまあいいや。私がこの子に気を遣う必要はもうない。
 それより。
 スマホを取り出した時に視界に入った進路調査票を手に取る。
 母が決めた大学が並び、特定の分野について研究したいとか書いてある”良い子の解答用紙”。よくもまあこんなものが書けたものだ。どこの大学にだって行ったこともないし、研究なんてしたくもないのに。
 ……そうだ、悪いことをしよう。
 進路調査票の天辺を両手で持って、少し力を入れる。ビリ、と『調』の文字が裂ける。その音に少し心臓が嫌な音を立てて手が止まったけれど、またビリビリと紙を引っ張る。進路調査票が2つに裂けた。2枚になったそれを重ね合わせてまた破る。何回も繰り返してできるだけ破いたその紙は“良い子”の残骸だ。風に乗ってどこかへ飛んでいく。
 どこかすっきりしたような感じがする。“良い子”の痕跡を破くのは楽しかった。
 そうだ。
 色んなものを壊してしまおう。今まで積み重ねてきた“良い子”の痕跡を全て滅茶苦茶にしてしまおう。ノートも価値観も人間関係も全部。
 さあ、どうしよう。私は何から始めたい?
 影を覗き込む。
 そこにはあの日、梅雨屋の前で見たのと同じ文言が書かれている。紛れもない私の影の本物が。
「ぁはっ」
 そうだ。ここが原点だった。あの梅雨屋には感謝しないといけないかもしれない。もう二度と会うこともないだろうけど。
 さあ、壊そう。終わらせよう。“良い子”の私を。
 もうこの世に“私”は存在しない。これからは新しい『私』が生まれるんだ。













『私が私であることが終わってしまえばいいのに』

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