染華と3分間の逢瀬─梅雨屋目録
お客さんにはもう二度と会えないお相手はいらっしゃいますかねェ? 人間様には出会いと別れがつきものですが、どうしても会えなくなっちまう別れもある。ところがこの世界ではそんな人にも一度だけチャンスがあるんでさァ。
この世界では『大切な人は死後3年経つと幽霊になって戻ってくる』って逸話がありましてねェ? 次のお話はそんな戻ってきた幽霊の話でさァ。
さァてお立合い。
これより語るは願いか愛か、はたまた呪いか。梅雨が奏でる噺の世界へようこそ。
○ ○ ○
「おやァ? 冥界からのお客さんとは珍しい。現世に来てまで何をお求めで?」
その声がした時、僕の中には色んな感情があった。
まず、声がする前までの君に会いたい焦燥感。声が届いた時の驚嘆、でも僕のことじゃないだろうとスルーしかけて、けれど立ち止まった。そして思わず振り返った。
そこにはさっき通り過ぎた時にはなかった屋台があった。
「驚いたって表情ですねェ。色んなお客さんの驚いた顔見てきやしたが、こりゃまた大袈裟じゃないですかァ? 幽霊のお兄さん」
彼は、確かに言った。
『幽霊のお兄さん』と。
「あの……僕の姿、見えるんですか?」
「えぇ。そりゃもうハッキリと。でも安心してくださいよ、お兄さん。今の状態なら普通の人間には見えませんから」
流石に僕はそれを聞いて安心できるほど呑気ではなかった。
さっきまでは絶対になかった屋台が振り返った時にはあって、その店主が今は誰にも見えないはずの幽霊の僕を見ている。しかも幽霊側の事情を知っているらしい。確かに『普通の人間』ではない。
だいたい、そうでなくても一目で怪しいと感じる見た目をしている。
屋台は今時鉄パイプも使っていない完全に木造のもので、何年前から建っているんだとツッコミたくなるボロさ。正面には大輪の花のように傘が四本咲いていて、その間から店主が話しかけてくる。店主は少なくとも僕より若い見た目をしていて、捩り鉢巻といいパッと見は元気のいい兄ちゃんといった感じだ。その貼りついたニコニコ笑顔の底知れなさを除けば。
「やだなァお兄さん。疑うのはよしてくだせェ。ワタシお客さんに酷いことはしませんから」
疑うな、と言われて素直に疑うのをやめられたら苦労しない。
振り返った時に現れる屋台といい、見えないはずの僕を見る店主といい、初めて降り立つ現世で軽く超常現象に出会っているのだ。明らかに怪しいし、軽くパニックにもなる。
「まァまァ落ち着いてくだせェお兄さん。ワタシはただのしがない梅雨屋です。お兄さんに危害を加えるような力は一切持ってませんよ」
……つゆや、と今そう言っただろうか。
もしも彼が梅雨屋その人なら、今までのこと全て納得がいく。彼が噂通りの人間なら……いや、彼は人間ではなかったか。
「ワタシのことをよくご存知のようで。そうです。ワタクシ噂通りの梅雨屋でございやす。梅雨にまつわるものならなんでもござれ。現世には存在し得ないちょっと不思議なものまで取り揃えております」
そういって一礼してみせる彼の口上は向こうで話に聞いたものと同じだ。
彼が噂通りの梅雨屋なら、きっと。
「僕が望むものも、取り揃えてるか」
「えぇ、きっと。試しに望みのものを言ってみて……あァいや。それじゃつまらねェ。試しにワタシが当てて見せましょう」
梅雨屋はそう言って目を開いた。
透明な瞳が、僕を見ていた。
いや、現実的には違う。確かにその瞳は茶色い。けれど、それはこちらを見透すような、自分の姿さえ見せないような、そんな透明な瞳に見える。
「幽霊さんは現世に3日間しか留まれない。その時間の中で人に見えるようになるのは任意の3分間だけだ。それでも会いたい人がお兄さんにはいる……恋人でしょうかねェ。死に別れた恋人のことが心配なんでしょう。そうですねェ」
梅雨屋はそう言って一本の傘を出した。
「コイツなんていかがでしょう」
その顔は元のニコニコ笑顔に戻っている。
「コイツは特別な番傘でしてねェ。その名を『染華』といいやす」
せんか、と名のつくらしいその番傘は、番傘だというのに透明で、ビニール傘のようだった。
「まだ『色』がついていないんでさァ。『想いを込める』なんて言うでしょう? コイツは『想いに染まる』番傘なんでさァ。お兄さんが喜びを込めれば橙色に、悲しみを込めれば藍色に。コイツが染まって、傘を持った相手に同じ感情を与えます」
想いに染まる傘。それは梅雨屋が言うところの『現世には存在し得ないちょっと不思議なもの』だ。
「ただし、例外もありましてねェ。まァ、やったほうが早いか。お兄さん、コイツを持ってくだせェ」
梅雨屋は唐突に傘を差し出した。
半信半疑で言われるまま傘を受け取る。
「持ち手のとこを持って開いてくだせェ。そうそう、そのまま恋人さんのことを思い浮かべてくだせェ。その人にどうなって、どうあってほしいのか考えながら」
梅雨屋は透明な瞳で僕を見ている。その瞳を見ていても真偽の程は分からない。ただ、それでもやってみようと思った。噂に聞く梅雨屋であれば、これは本物だ。やるだけの価値はある。
目を閉じて、考える。君のことを。あの日から悲しみに暮れている君のことを。一人で全部抱え込んでしまう君のことを。壊れないように。幸せになれるように。願いを込めて。
「……白、ですねェ。こいつァ良いものを見れた。礼を言いますよ」
その言葉に目を開けると、視界の中には眩いばかりの白い番傘があった。思わず溜息をついてしまうほど美しい。
「その番傘は決して他の色に侵されることなく、お兄さんの大切な人を守ってくれる。見事な『例外』だ。家宝にするべきですねェ」
梅雨屋もそう言ってまじまじと傘を眺めていた。
「もっとも、それが家宝になる時を考えると、お兄さんとしては複雑な心境になるかもしれませんが」
余計な一言をニタニタしながら付け加えられたけど。
「さて、もう時間がないんでしょう? さっさと支払いをすませやしょうか」
「あの……現世のお金、持ってないんですけど……」
そればかりが気がかりだった。もしここでやっぱり売れないと言われたら困ってしまう。
けれど、心配の必要はなかった。
「あァ、向こうの通貨があるでしょう? それで良いですよ。ワタシは多方面に用があるんでねェ。特別な金も必要なんです」
まさか向こうのお金を初めて使う場所が現世になるとは思わなかった。言われた通りの金額を支払うと、梅雨屋は「毎度あり」と言って、渡した金を壺の中に入れた。
「……早くした方がいいんじゃないですかァ?」
もうやり取りは終わっていたのに呆然と立っていたからだろう。梅雨屋は不思議そうに僕を見ていた。確かに君に会うためには今すぐ動いた方が良い。僕は歩き出して、でもすぐに立ち止まった。
「あのっありがとうございました!」
お礼を言いたかったから。でも僕がその言葉を言うと梅雨屋は少し驚いた顔になった。
「感謝の言葉なんて久しぶりに聞きやしたよ。こちらこそ。もう会うことはきっとないでしょうが、もし万が一また現世で困ったことがあればこの梅雨屋に御用命を。きっとあなたに必要な道具を売ってみせますよ」
梅雨屋はそう言って一礼した。僕も一礼して、それから走り出した。
君にこの傘を渡すために。
* * *
「酷い雨ですね」
急に降ってきた雨に追い込まれるようにして辿り着いたシャッター街。その張り出した屋根の下で雨宿りをしていたら、同じく傘を忘れたのであろう男の人に声をかけられた。
「そうですね」
こんな時にその程度の言葉しか出てこない自分が情けなくなる。人と話すのは得意じゃない。見知った相手でもそうなのに、知らない異性ともなればなおさらだ。
「僕、傘忘れちゃって……普段は折り畳み傘を持ってるんですけど、昨日使ったカバンの中に置いてきちゃったみたいで……」
話し相手は降り続く雨を見つめながらそう告げる。もう少し言葉らしい言葉が返せれば良かったけれど、私の口からこぼれたのは「はぁ……」という音だけだった。
「あ、急にこんな話しちゃってすみません! 迷惑ですよね、ごめんなさい」
「あっいえ、そんな!」
『ごめんなさい』には過剰に反応してしまう。私の悪い癖だ。とはいえ、そこから言葉は続かない。お互いに黙ってしまって雨音だけが響く。このまま音の中に埋もれているわけにもいかない。気まずさが尋常ではないのだ。何か話題を見つけたいけれど、そんな器用なことが私に出来るわけもない。とにかく何か言わなければという一心で言葉を紡ぐ。
「あのっ……話しかけていただいて構わないので、その……よろしくお願いします」
……。
今、私は何を言ったんだ。嫌だ。振り返りたくない。とんでもない失敗をしてしまった気がする。これはあれだ。夜になってふと思い出しては悶え苦しむタイプの思い出だ。
私がそんな風に相手を置き去りにして一人悶々としていると
「よろしくお願いします」
相手は優しい笑みでそう言っていた。
優しい人で良かったと喜ぶべきだろうか。馬鹿にされているのではと警戒するべきだろうか。私の些細な逡巡は気づかれない。彼はそのまま話を続ける。
「あの……実はさっきから思ってたんですけど、その缶バッジ、ジュシア君ですよね?」
私の予想外の方向に。
「えっ? えっとあの、その、あっと、ジ、ジュシア君、ご存知なんですか…?」
完全に挙動不審な私に対して彼は変わらず笑顔で話しかけてくれる。
「ご存知どころか大好きですよ! あんまり知ってる人いないんで、実は見つけた時からテンション上がってました」
恥ずかしがるように頭を掻く彼。対して私はプチパニックだ。ジュシア君を知っている? オリジナルアニメを制作したもののごく一部にしか刺さらなかったこのマイナーなジュシア君を? 知っている? たまたま一緒に雨宿りをしていたこの男性が?
「僕、7話でジュシア君が去ってしまうところ大好きなんです! 何事もないみたいに基地を出ていくけれど、その後『みんな良い大人になれよ』って呟くのがもう……!」
……知っている。確信した。この人は本物だ。
「そ、そうなんです! 今までずっとみんなを導いてくれてたジュシア君が去って行ってしまって! その後どうなるんだろうと思ったらまさかの3年後に時間が飛んで! でもみんなずっとジュシア君を探してるんですよね! ずっと日常系の物語だったのに急にシリアスになったからあの時は心中穏やかじゃなかったです…!」
ずっと誰かと共有したかった『にげトラ』への愛が溢れ出す。いや、溢れ出してる場合じゃないだろう。私は何度失敗を繰り返せば気が済むんだ。さっきまでコミュ障だったやつが何を語っている。これじゃ折角の同志に引かれてしまう。
……と、思ったのだけれど。
「そうそう! 分かります!」
相手は頬を紅潮させてさらに話を続けてきた。
その後はもう夢中だった。打てば響くとはこのことなのだろう。私が好きな部分を語れば、彼もそれを肯定し更に話を深めてくれる。こんなに楽しい会話は久しぶりだ。正直、だいぶ暴投している気もするが、彼はあっちこっちへ飛んでいく言葉たちを見事にキャッチしてくれる。話していて気持ちがいい。
「それでみんながジュシア君に『私たち良い大人になれた?』って聞くところがもう……あ」
ずっとテンポの良い会話をしてくれていた彼がそこで言葉を止めた。彼の視線の先を見つめてみるとそこには見事な青空が広がっている。
「……雨、止んでましたね」
そう言って彼は照れたように笑う。
「あっそうですね。すみません。夢中になっちゃって……」
「いえいえ! 僕も楽しかったですし! あの、こうして会ったのも何かの縁ですし、これからも一緒にお話しさせていただければと思うんですけど……良いですか?」
偶然の雨宿り。それが私たちの出会いだった。
* * *
「会ったのがもう……5年前、だっけ? あの時のことちゃんと覚えてる?」
返事はない。
「うーん、でも覚えてるのかなー。君の方が記憶力良いもんね。私は君が相手で良かったなあって振り返る度に思うよ」
立ち上る線香の煙は曇り空へ消えていく。灰色が支配するこの空間の中で花だけが彩りとなって存在している。
何度見ても『墓』の一文字は痛々しい。
「思い出話だけしてたら怒られちゃうかな……君は私の話が聞きたい変な人だもんね。そうだな……」
最近のことを思い出す。意見が言えなかったこと。友達を慰められなかったこと。優しい先輩に怒られたこと。
「最近はあんまり上手くいってない、かな」
自分で口に出しといて落ち込む。どうも梅雨に入ってからは気が滅入るようなことばかりだ。
「……君がいないから、愚痴ることもできない」
君がいなくなってからちょうど3年目。『君がいない』という事実を認めそうで、その度に悲しくなる。認めたくない私もまだいて、それでも事実はどうしようもなく突きつけられる。
君の死体を、私は見ているから。
あの日のことは、嫌になるくらい鮮明に覚えている。
デートから帰る途中だった。横断歩道を渡っていたら、突然君につき飛ばされた。転んで、わけもわからずに立ち上がって、それから、見た。トラックに数メートル吹っ飛ばされた君の姿を。
慌てて駆け寄って、必死で君の名前を呼んだ。しっかりしてって叫んだ。人生で一番声を張り上げた瞬間だった。
パニックになる私の代わりに救急車を呼んでくれたのは君をはねた運転手だった。彼はこの世の終わりのような顔をしていた。救急車を呼んだ後は呆然と立ち尽くして、ただうわごとのように『ごめんなさい』と繰り返していた。
そんな彼の様子が目に入るはずもなくて、君に出来た生々しい傷跡の数々を、ぬるりとした血液を、目を閉じたまま動かない君を、どうすることも出来ずに見つめていた。
救急車の隊員さんも、君のことをどうにもできなかった。
後から聞いた話だと、君は吹っ飛ばされて頭から落ちたらしかった。打ち所がこれ以上に無く悪く、助かるのはとても無理だということだった。
起こった出来事の全てが悪い夢のようで、とても現実だとは思えなくて、でもその鮮明さは、声は、匂いは、死は、どうしようもなく現実だった。
まだ結婚していなかった私を、親族の皆さんは特別に葬儀に参加させてくれた。君のお母さまに何度も言われた。『きっと息子はあなたを守れて誇らしく思っています。どうかご自分を責めないでください』と。何度も、自分に言い聞かせるように、涙を流しながら言っていた。必死で自分を保とうとしているのだと悟った。恨み言を言われた方が楽だったのではないかと今も思う。
私は葬儀が終わった後、すぐに姿を消した。あれ以上自分を追い込んでほしくなかった。私のいない所で本心をさらけ出して欲しかった。私自身、自分に素直になる時間が欲しかった。
涙に包まれる会場の中で、私だけが泣くことを許されなかった。家族の皆さんを差し置いて私が号泣してはいけないと思った。だから、できるだけ、泣かなかった。目は潤んだ。でも水滴を落としてはいなかった。その水滴を、葬儀からの帰り道で、自宅に帰った後で、流し尽くした。
君がいなくなってから、しばらくはまともな生活ができなかった。ご飯は当然喉を通らない。作る気も起こらない。何をする気にもなれなかった。とにかく有休を使うことを会社に連絡して、あとはもうベッドに倒れこむばかりだった。何時に寝て何時に起きているのかわからなかった。ただ、寝ても覚めても君のことばかり考えていた。
どれだけ君に生かされていたのかを実感する日々だった。
「……今も、そうだけどね」
あの頃に比べれば私は随分と人間的な生活をするようになった。決まった時間に起きて、大体同じ時間にご飯を食べて出社する。順風満帆とはとても言えないけれど、でも君のことしか考えない日々ではなくなった。
たぶん、普通の私になろうとしている。君のいない日々を普通だと思おうとしている。そんな自分が嫌なところもある。君のいない日々が普通になってしまったら、私は君のことを特別に思えていないみたいで、嫌だ。
頑固な私と、真実とが争っている。あの日からずっと。
「……幽霊になって出てきてくれてもいいんだよ?」
なんて、バカなことを言ってみたり。
幽霊の存在に賭けているなんて私も相当弱っている。それでも、期待せずにはいられない。何かの間違いで目の前に現れてはくれないだろうか。君には、言いたいことがあるから。それでも、もしも幽霊になってここに来れるなら、君は私ではなく家族のところに行くのだろう。幽霊が現世にとどまれる時間はとても短いというから……。
「……良かった。私まだ全然君から離れられてないみたい」
これからも離れるつもりはないよ、とストレートな愛の言葉を囁けない代わりに呟いて立ち上がった。その途端、足元に水滴が落ちる。雨だ。バッグの中を探る。確か折り畳み傘を入れておいたはずだけど……見つからない。
「あ」
そこで思わず声を出してしまった。朝、元々持っていく予定だったバッグの中に荷物が入りきらなくて詰め替えをした。その時に折り畳み傘を入れ忘れたのだ。
落ち込むのも束の間、雨は確かな質量を持って降り注ぐ。とにかく急いで雨宿りをした方が良さそうだ。確か、ここからそう遠くない場所に大きめの商店街があった。ドーム型の屋根が商店街の奥まで続いていた記憶もあるし、その先にコンビニがあった気もする。そこまで走ろう。
商店街へと駆け込む。最近まるで走っていなかったからだろう。引くほど息を切らしている。雨足が強まったのが商店街に入ってからだったのが不幸中の幸いだろう。さすがにこの雨の中を走るのは嫌だ。
呼吸が整うまで地面を打ち続ける雨を眺めていたけれど、いつまでもそうしているわけにも行かない。正直ちょっとだけ屋根の外に出るのも嫌なくらいの雨量だが、いつまでも商店街にとどまっていては家に帰れない。コンビニへ向かおうと歩を進める。
商店街の中には同じく雨宿りをしているのであろう人たちが入り口に数人程度で、あとは人がいなかった。ここもシャッター街になってしまったらしい。ほとんどのお店が閉められていて、傘を売ってくれそうなところはなかった。少し溜息をつきながら歩く。
屋根に降り注ぐ雨の音、ほとんど変わらないシャッターの景色、そして折り畳み傘を忘れた後悔。それらを繰り返しながら歩き続ける。足取りは軽くない。この後、商店街から出なければならないのだ。もうすぐその試練がやってくる。
出口の前。雨が真っすぐに地面に突き刺さる中、向かいにコンビニが見える。来てしまった。試しに少し待ってみたが、雨の降る量は変わりそうにない。降り始めの大人しさはどこにいったんだ……。
この雨の中に飛び出す勇気をどうにか捻出しようとする。
「酷い雨ですね」
聞こえるはずのない声が聞こえたのは、そんな時だった。
「良ければこの傘をどうぞ」
声は後ろから聞こえてくる。懐かしい声。数年ぶりに聞く声。でも間違えるわけがない、だからこそ信じられない、その声。
ゆっくりと後ろを振り返る。目の端に声の主が映りこんだ瞬間に、確信した。
「久しぶりだね。会うの遅くなっちゃってごめん」
白い傘を持った君が、いた。
「……何か言ってくれると嬉しいなあ。あんまり時間なくてさ」
君には悪いけれど、とても言葉が出てこない。
「君がしゃべらないなら僕が話すからね? 今言ったけど時間がないんだ。とりあえずこれ受け取って」
まだ現実に思考が追いついていかない私に君は白い傘を渡す。番傘だ。
「それは梅雨……ちょっと特別なお店で買った傘なんだ。そこの店主によると、その傘は君のことを守ってくれるらしい。僕がそういう思いを込めたから。何だか信じられないかもしれないけど……あ、僕が今ここにいることのほうが信じられないかな?」
私は首を縦に振りまくる。全くもってわけがわからない。君が目の前にいて喋っている。しかも傘が私を守ってくれるなどと言っている。信じられないことがいっぺんに起こってとてもじゃないけど処理しきれない。でも、そうだ。墓前で自分で言ったじゃないか。幽霊になって出てきてくれてもいいと。
「……にしたって、なんでこんなに突然に」
「あ、やっと信じてくれた? ごめん。本当に時間がないんだ。3分しか……いや、もう2分を切ったとこ」
必死で君の言うことを飲み込む。時間がない。もう2分もない。
「それで、うん。僕はどうしても君を守ってくれる物が欲しくて、それを渡しにきたんだ。僕はずっと君のことを見守ってるけど、見守るだけじゃできないことも多いから」
君は言葉を続ける。
「君のことは……一人に、しちゃったから。ずっと見てたんだよ」
そう言って優しく笑う。いつもみたいに。
久しぶりのその笑顔に、胸の奥がぎゅっとなって、同時にその笑顔を永遠に奪い去ってしまったことを思い出す。
「……ごめん。あの時、私がいなければ、きっと君は避けられたのに……」
視線を下げる私に
「それは違うよ」
君ははっきりとそう言う。
「あの時は僕が無理言って君についていったんだ。だからそうじゃなかったらきっと君がトラックにはねられてた。そんなの僕には耐えられない……僕はきっと、君を守るためにあそこにいたんだよ」
「でも……」
君が死んだあと、世界がどうなったか、私は知っている。それがどんなに哀しいことだったのか。君にとっても、それは同じだったに違いない。
でも君は少し茶化したように言う。
「そりゃ君のことを幸せにできなかったのは未練だけど」
傘を持つ私の手に自分の手を重ねて、真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。
「だからこそ、その傘を買って来たんだ。これからはその傘が僕の代わりになってくれる」
相変わらずその言葉の真意はよくわからないけれど、でも確かにこの傘が特別なものだということは肌で感じる。
「だから大切に持っていて。店主は家宝にするべきって言ってた。それくらい大切に。僕もずっと見守ってるよ。……ごめん、もう時間だ」
君はそう言って私を抱き寄せる。久しぶりに包まれる感触に、体温はない。
「愛してる」
けれど、言葉以上の愛を感じる。
君はどこか遠くを見つめる。その身体が足元から光の粒子になっていく。
「……私も! 私もずっと好きだから!」
もう会えない。そう直感して私は泣きながら必死で言葉を作る。
「……愛してるから!」
君は少し驚いて、それから笑った。
その笑顔を最後に、私たちの3分間の逢瀬は終わった。
* * *
君と最後に会ってから3年が経ったね。
あの時はわけもわからずに貰った番傘だったけど、今ならその意味がよくわかるよ。この傘を握っている時は、不思議と心が温かくなるんだ。まるで君がいた頃みたいに。それに、何故かわからないけど、感じる。君が今も見守ってくれていることを。あれから雨の日は少し楽しみになったんだ。君と一緒にお出かけが出来るみたいで。それに、泣きそうなときにこの傘に触れていると、大丈夫って言ってくれる気がするんだ。……変なのは、自分でもわかってるよ。傘に慰められるなんておかしいって。
でも、大切な傘。君がくれた最後の贈り物。家宝にするべきだね。って、私結婚する気ないから代々受け継いだりできないんだけど。
ねえ、君は元気にしてる?
今も君の傘は私をあらゆる雨粒から守ってくれるよ。
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