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蛇の目と”一途”─梅雨屋目録

 ”一途”って聞いたらお客さんはどんな印象を持ちやすかねェ? そう悪いようには思わないかもしれませんねェ。もしくはそこに切なさを感じるかもしれねェ。
 でもねェ、お客さん。一つ忘れちゃいけねェことがある。
 ”一途”は”呪い”になりうるってことでさァ。
 さァ、勝つのは愛すものか愛されるものか、はたまた”一途”か。梅雨が奏でる噺の世界へようこそ。

○ ○ ○

 初めて会った時から奴のことが嫌いだった。
 好きな人の彼氏という情報だけでも好きにはなれないというのに、その好感度を更に下げてきたのは奴の言葉だった。
 菱沼さんと駅まで帰ったある日、初めて奴に出会った。彼女から話は聞いていた。とても優しい人だと言っていた。確かに見るからに優しそうだったが、僕がひねくれているのか、分かりやすくそういう格好をしているように見えた。人は見かけによらない。今の時代見た目くらいはどうにかする選択肢がいくらでもある。奴の恰好は全ての選択肢から『好青年』という正解を選び取っているようだった。
 その”好青年”を彼氏と紹介してくれる彼女の手前、何も言わないわけにもいかない。最悪だと思いつつ顔には出さないようにありきたりな挨拶をする。
 奴は好青年の皮を被ったまま挨拶をして、言った。
「りえのことがお好きなんですか?」
 当たり前のように問われたが、見知らぬ男に自分の彼女が好きなのかと問いかけるなど正気の沙汰ではない。当然、好きだなんて言えるはずもない。何と返せばよいか分からず固まっていると、奴は笑った。
「すみません。冗談がすぎましたね」
 何を言っているのかさえ知らなければ『良い人だ』と無条件に信じてしまうような笑顔だった。ただ、何を言われたのか分かっている僕はその言葉と表情があまりにちぐはぐで恐ろしくなってしまった。
 奴は彼女の手を取ってつないだ手をアピールするように掲げる。
「僕たち付き合ってるんです。理解のある方みたいで助かりました」
 心底嬉しそうな顔をする奴の横で彼女はキョトンとしている。
 歪んでいる。そう直感した。
 奴と彼女が駅構内に消えてからも僕はしばらくその場を動けなかった。
 奴に会った時間は五分にも満たない。それでも僕は歪みを感じ取った。彼女は悪意に気づかないようなところがある。以前彼女が同僚から悪口を言われていた時、フォローしに行ったらキョトンとしていた。『今、悪口を言われていたんだよ』と言うわけにもいかない。なんでもないんだ、とその場を去ることしか出来なかった。
 けれど、今回のは酷い。
 菱沼さんは自分の身の回りのことについて無関心なところがある。そうは言ってもここまでのことを見過ごせるものか。
 『理解のある方みたいで助かりました』などと言っていたが、あれは明らかに拒絶だろう。
 独占欲が強い、とそれだけで済ませられることだろうか。もしそうなら拒絶している相手に対してあんな笑顔にはならないだろう。
 考えすぎかもしれない。そうも思った。けれど第六感とも言うべきものが否定している。『あれは異常だ』と。
 彼女を奴から引きはがさなければならない。そう思った。
 きっと彼女は別れる理由がないまま付き合いを続けてしまう。そうなったら彼女は一生奴に支配されて生きていくことになる。言い過ぎかもしれない。ただそれに近いことは起こりうる。そう直感した。
 僕は奴から彼女を奪わなければならない。
「へーェ、大層立派なことじゃないですかァ。趣味の悪い紫陽花まで大事そうにしちゃって、いかにも呪われそうですねェ」
 僕の目の前でニヤニヤしながら話を聞いている『梅雨屋』という男は、わざわざ話を聞き出した割に失礼な言葉を放って来た。
「趣味が悪いってのはどういう意味だ」
「意味がわかってて大切な”彼女さん”とお揃いのチャームを買ったんでしょう? そりゃァ趣味が悪ィや。宣戦布告ってとこですかァ?」
 ……待て。
「僕はお前に彼女にもこのチャームを送ったと言ったか?」
「大切な彼女さんってェ言葉は否定なさらないんですねェ。そんなの聞かなくたってわかりやすよ」
 当然でしょう? とでも言いたげな顔で言われると腹が立つ。
「何も買わずに帰ったっていいんだぞ」
「その点は何も心配しちゃいませんよ。お客さんは必ず蛇の目を買いやすから」
 人を馬鹿にするようなニヤつき顔はそのままに、梅雨屋は確信しているかのようにそう告げる。
「だいたい話し始めたのはお客さんじゃァありませんか。勝手に話し始めて勝手に帰って行くなんてそれこそ礼儀がなってないんじゃァありませんかァ?」
 ……そうだっただろうか。
 怪しい屋台を見つけて遠巻きに見ていたら話しかけてきたのはそっちだった気がするが。
 確か、そう。『そこのいかにも呪われそうなお兄さん、守りたい人がいるんじゃないですかァ?』と。
 言葉の意味を理解するのは遅れた。『呪われそうなお兄さん』だ。日頃の会話でそんな言葉はまず出てこない。ただ、梅雨屋が真っすぐ僕を見てそう言うし、僕の他に人もいなかったので、自分のことだと思わざるを得なかった。
 自分のことだと理解してから、僕は選択を迫られた。何度も通って来た道に突如として現れたその屋台から逃げるかどうか。結果から言ってしまえば僕は逃げなかった。
『守りたい人がいるんじゃないですかァ?』と。その言葉がどうしても引っかかった。
 そして近づいて行って話し始めたのは……僕か。いや、正確に言えば梅雨屋からも一言あったが、別に諸事情を語れとは言われていない。確かに勝手に話し始めたのは僕だった。
「別にお客さんの羞恥心につけこんだりしやせんから安心してくだせェ。こいつがお客さんに必要だから売りに来た。それだけのことでさァ」
 そう言って梅雨屋は和傘を取り出す。
「こいつァ『蛇の目傘』。ワタシが取り扱う品の中では有名な商品ですねェ。お客さんも聞いたことあるでしょう?」
 言いながら梅雨屋が開いた傘には確かに円が描かれている。
「蛇の目には魔除けの意味がありましてねェ。お客さんにはピッタリだ。いや正確には、お客さんの”守りたい人”には」
 梅雨屋は僕を見つめる。その透明な瞳で。
 ……透明な瞳? 自分で発した言葉だが冷静になれば違和感が拭えない。梅雨屋の瞳は茶色いのに。だけどなぜだろう。『透明な瞳』という言葉はどこにも引っかからずにスッと出てきた。何もかもを分かっているような、何も伝わってこないような、不思議な瞳。
「ご購入されますか?」
 梅雨屋は元のニヤニヤをその顔に貼り付けて言う。
「……僕は絶対にそれを買うんじゃなかったのか?」
「えぇ。もちろん。けれど確認は必要ですからねェ」
 こちらを見透かすような口ぶり。
「さァ、どうしやすか? 守れる可能性に賭けるか。自分一人で立ち向かうか……もっとも、蛇の目が効力を発揮するかどうかはその人次第ですがねェ」
「……彼女が持ったら効力を発揮しないような言い方じゃないか」
「そんなこたァありやせんよ。ただ、これはさっき言ったように賭けなんでさァ。この世界には呪いってやつが存在する。相手がもう手を打っていたら、コイツでも太刀打ちできねェ。早いもん勝ちなんでさァ」
 早いもの勝ち。そういう言葉は嫌いだ。今は特に。
 出会った順番で恋路が決まるなんて馬鹿馬鹿しい。僕の方が遅れていたからって、僕が彼女を好きになってはいけない理由にはならないだろ。
 僕が彼女を守ってみせる。触れたら壊れてしまいそうで、だけど隣にいて守ってあげないといけないような、そんな彼女を。
「買う。それで彼女を守れる可能性が少しでもあがるなら」
「毎度あり」
 それなりの額を梅雨屋に渡し、代わりに蛇の目傘を貰う。その時、梅雨屋は言った。
「あとはあなたの考え方次第ですねェ」
 と。聞こえるか聞こえないかくらいの声で。
 僕はその意味を深くは考えなかった。言われた、という確信もあまりなかったし、何よりこの傘を早く彼女に届けたかったから。
 どうしてか全て上手くいくと思っていたから。

◇◇◇

「別れよう」
 黒川くんにそう言われたのは、まだ梅雨時らしくシトシトと雨の降る夜のことだった。
「……どうして?」
 単純に理解したいと思ったからそう問いかけてみた。
 そうしたら、君は一瞬だけ真剣な眼差しを緩めて、いつもみたいに微笑んでくれたよね。子供を叱るお母さんが気を緩めてしまったみたいに。だから、私その時思ったの。君が私を嫌いになったわけじゃないんだなって。余計にどうしてなんだろうって気持ちになった。
 そしたら、君は私に湧いた疑問にちょうど答えるみたいに言ってくれた。
「君の気持ちがどこかにいってしまったみたいだから」
 って。
 私には正直あまり理解できなかった。黒川くんのことは今でも優しい人だなって思ってるから、私が浮気したみたいなことを言われるのは妙な気分だった。
 不思議がっている表情でもしていたんだろう。黒川くんは私の頬に手を当てながら言った。
「ほら、またそんな顔する」
 って。
 黒川くんは物凄く察しが良いところがある。そう言うとお母さんは、『あんたが鈍いだけ』って言うけれど。だから、黒川くんは察したのだろう。私も気づいていない私の変化に。
 黒川くんは頬を撫でたその手を背中に回して、私をそっと抱きしめて言う。
「本当は全部言っちゃってもいいんだけどね。でもやっぱりカッコつけたいみたいなんだ。まだ僕にも可愛げが残ってたのかな」
 その言葉の意味は、よく分からない。黒川くんは時々、私には理解できないことを言う。正直なことを言えば『別れよう』と言って来たのに、まだ抱きしめてくれるその気持ちのことも、私には分からない。
 黒川くんは私よりずっと複雑な世界で生きている。たぶん、私の世界と一瞬でも交わったのが奇跡なくらい。だから、この行動は黒川くんの中の正解なんだろう。
「……ごめんね。いっつも何も分かってあげられなくて」
「良いんだよ。それがりえだから」
 黒川くんはそう言って頭を撫でてくれる。
 こんなに穏やかなお別れは初めてだ。いつもは相手の男の人に怒られるのに。『どうして君はそうなんだ』って。浮気しただろっていつも言われて、でも私には何のことだか分からなくて、もしかして最近優しくしてくれる人のことかなって思って、その人の名前を出すとまた怒られる。私は誰かの”優しい”が好きだから一緒にいただけなのに。今までの人たちは皆、自分の”優しい”だけを私に受け取って欲しいみたいだった。
 でも、黒川くんはそんな私のことも受け入れてくれた……んだと思う。
 少なくとも、『良いんだよ』なんて今までの人たちは言ってくれなかったから。
「ありがとう」
 そう言ったら、黒川くんはきつく私を抱きしめた。
 だから、私はお別れした時の黒川くんの表情を知らない。

 三日後、同僚の佐藤さんに告白された。
 佐藤さんは私に紫陽花のチャームや和傘をくれた、ちょっとプレゼントのセンスが独特だけど”優しい”人。
 だからお付き合いしてもいいなって思った。それを伝えたら佐藤さんはすごくビックリして、頬を紅潮させて『いいんですか!?』って夜なのに物凄い大声で聞いてきて、自分で口を塞いでた。
「はい、いいですよ」
 そう答えた途端、佐藤さんはまた踊りだしそうな勢いで喜んでたけど、私の頭の中には黒川くんの顔が過った。
 黒川くんの匂いがした、気がしたから。

 佐藤くんと付き合い始めてから随分時間が経った。
 黒川くんの匂いは、消えない。
 香水をつけてみてもシャンプーを変えてみても家中のありとあらゆる服を洗濯してみても、消えない。
 いつもは気にならないけれど、佐藤くんが私を抱きしめようとしてくれた時に限って思い出したようにふわりと香る。佐藤くんが優しくしてくれようとした時に必ず黒川くんのことが過ってしまうのは、なんだかすごく申し訳なかった。私は思い出したい訳じゃないのに、匂いが鼻を掠めると引っ張られるように黒川くんの顔が出てくる。
 佐藤くんも、付き合い始める前と後で私の匂いが変わってしまったのには気づいたみたいで、付き合ったばかりの時に『香水とかつけました?』と聞かれた。その時は違いますって答えたけど。
 この前、思い切って正直なことを言ってみたら佐藤くんはすごく取り乱していた。黒川くんと別れる時に何かされなかったか聞いてきたり、私の部屋に佐藤くんがくれた和傘があることを確認したりしていたけれど、最後には「遅かったのか……」と悔しそうに呟いていた。
 それ以来、佐藤くんはあまり私に近づかなくなった。”優しい”ままだけど、どこか苦しそうで、私は言わなければ良かったのかな、と今も思っている。
 黒川くんの匂いは、消えない。

◇◇◇

 ああ、この喪失感たるや! 君の声が、仕草が、存在が僕の隣にないことがこんなにも胸に風穴を開けるだなんて!
 でも僕は一つだけ持っている。いつだって君の存在が実感できるものを。
 君を迎えに行って、その隣に知らない男がいるのを見た時はどうしてやろうかと思ったよ。男のことも、君のことも。帰り道、男のことは素直に話してくれたよね。君は僕を疑うことを知らないから。いいや、違うか。君は疑うほど人のことを信じようとしていない。人が人を疑うのはその人を信じたい気持ちが多少なりあるからだ。でも君は違う。他人のことなんて心底どうでもよくて、自分さえ生きていければ良いんだよね。
 ほんと、我が愛しの人ながら最低だよ。
 そんな最低な君だから、稀に君に向けられる好意は全て受け取ってしまう。例え名目上の彼氏がいようがお構いなし。浮気した自覚すらないんだろうね。まあ、浮気の線引きをどこにするかって話でもあるんだろうけど。
 ともかく僕は悟ったんだよ。君が知らない男──佐藤って言ったかな? そいつと歩いているのを見た時に。「あぁ、終わったんだな」って。だから即座に考えた。その場で佐藤ってやつが諦めてくれれば一番良かったんだけど、僕がやったことは逆効果だったみたいだね。佐藤の目は怪物でも見るような目だったけど、その中に確かに嫌悪感があったから。焚きつけちゃったのは失敗だったけど、でもだからすぐに判断できた。
 りえと佐藤を無理に引きはがすのは止めようって。
 どうせ君は僕が何を言っても無駄だからね。僕が「できるだけ話すのはやめてくれ」と言ったって「どうして? 佐藤さんは”優しい”よ?」とか言われるのがオチだから。
 だから僕は考えた。一計を案じたって言葉はこういう時に使うのかな。
 君が僕を忘れないようにすればいい。
 そのために僕はまじないを調べた。どんな呪いが良いか、それはもう遠足に行くことが決まった子供みたいにワクワクしながら調べたよ。
 そして見つけたんだ。
 君と僕の匂いを交換する呪いを。
 これで別れた相手に自分の存在を繰り返し思い出させることができる。
 僕と君が別れたら、君はなんとなく佐藤と付き合うことになるんだろう。その時から僕と君の匂いは入れ替わる。僕はいつでも君の存在を感じることが出来るし、君は僕のことを忘れることが出来ない。うっかり佐藤にそのことを話してくれれば好都合だ。りえのことを抱きしめる度に僕の匂いがすることに気づいてしまったら、きっとそんなの耐えがたいだろうからね。
 ただそのためには一度りえと別れないといけない。けれどわざわざ時期を早めてやる必要もないからね。だからその時にはこの時間を謳歌しようと決めた。
 それから3週間くらい経った頃かな。君はバッグに見慣れない紫陽花のチャームをぶら下げて帰って来た。りえが出かける時は必ず一緒だから、知らない間に買ったって可能性は低い。それに買ったら自分から言うだろうし。だからすぐに誰かに貰ったものだと気づいたし、それが誰なのかも分かった。君に好意を寄せている相手なんて世界中探しても二人だけだからね。僕じゃないなら佐藤だ。
 確認するまでもなかったけれど。
「それ、どうしたの?」
 紫陽花を指さして聞くと、りえは素直に教えてくれた。
「このチャーム? 佐藤さんがくれたの」
 答えは予想通りだったから僕は用意していた言葉をすっきりと言えた。
「随分と趣味が悪いね」
 りえはきょとんとしている。こういう時に言い返してきたり不機嫌な顔にならないのも人に頓着していない証拠だ。自分に贈り物をしてくれた人を貶されているんだから怒っていいものを。
 まあ、意味が分かってしまうならそれはそれで趣味が悪いけど。
 でもその趣味の悪い紫陽花は好都合だった。佐藤にとっては宣戦布告だったかもしれないが、僕にとってはタイミングを与えられただけだ。
 翌日、僕たちは別れた。
 りえは訳が分からないといった様子だったけど、別れることに否定的ではなかった。自分には次に向かう場所があると分かっていたからだろう。それが無意識なのが怖いところだけれど。
 思った通りにさっぱり別れることが出来た3日後。つまり今日、呪いは発動した。
 最初はびっくりしたよ。部屋の掃除をしてたら急にりえの匂いがするから。でもすぐに愛おしさが胸を占めた。僕は屈みこんで深く息を吸って、匂いが入れ替わっていることを確かめた。
 それは君が佐藤と付き合った証拠。僕の匂いを君が感じている証拠。
 君はどんな風に思うかな。そんなに苦にはならないんじゃないかと思うけど、君自身の香りが奪われてしまったことに対しては憤りを覚えるのかな。まあ、君は自分が呪われているだなんて思わないだろうから憤りを覚える先もないだろうけど。
 でも、ああ、良いね。君の匂いを常に感じられるのは。付き合っている時でも四六時中というわけにはいかなかったからね。本当は君には何もしないでいて欲しかったけど、僕は何やかんや君に甘いんだ。仕事がしたいならさせてしまうし、他に好きな人が出来たら許してしまう。
 でも絶対にその手を離しはしないよ。
 君の匂いを感じる。それ以外が今は手元にないことを実感する。だから胸に風穴が開く。でもこれは僕が君を愛している証拠なんだよ。
 例え一生君が帰ってこなくたって僕はそれで構わない。
 そしたら死んだ後にでも迎えに行くよ。

◇◇◇

 やられた。
 一体いつから。少なくとも僕が梅雨屋から傘を買う前から。じゃあそれっていつなんだ。まさか僕と出会った時に既に準備してたってのか。ずっと奴の手の平の上で踊らされていたとでも、僕がりえと付き合うことまでも計画のうちだったとでも言うのか。
 梅雨屋は言っていた。『早い者勝ち』だと。蛇の目傘は効力を発揮しなかった。奴の呪いの方が先だったから。にしたって自分が別れることが前提のこんな趣味が悪い呪い……。
「くそっ……!」
 思わず言葉が口からこぼれる。結局何もできていない。梅雨屋に金を払っただけで、僕は彼女を守ることが出来なかった。しかもこの呪いは一生彼女につきまとう。僕が彼女と一緒にいる限り、ずっと。彼女は奴から離れることが出来ない。物理的にどんなに遠ざかろうとも、その存在を濃く感じてしまうものが常に香っているのだから。仮に僕が別れたってその匂いは消えやしないんだろう。
『あとはあなたの考え方次第ですねェ』
 ふと梅雨屋の言葉が蘇る。……まさかこうなることを承知の上で傘を売りつけたとでも言うのか。その上で『考え方次第』だとでも。
 ……考え方、か。
 気にするなというのは無理だ。彼女と一緒にいる限りどうしても気になる。どんな匂いも上書きされてしまうのだから。
 けれど、僕が彼女と一緒にいるのは、奴から引きはがしたかっただけじゃない。
 単純に彼女のことが好きだったからだ。
 奴に出会ってからは引きはがしたいという気持ちが強くなってしまったのは認めよう。けれどそれは何故かって彼女に幸せであってほしかったからだ。
 たとえ奴のことを忘れられなくても、それが気にならないくらい幸せにしよう。
 それが僕に出来る唯一のこと。奴から引き離す唯一の方法。
 彼女を幸せにすることだけ考えよう。
 他の誰でもない、僕の手で、幸せにするんだ。

◇◇◇

 待ってたよ。ずっと一緒にいてあげる。

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