瑠璃空に愛を。 ②
【癒空、20歳秋】
季節を超えて私はまだ、呼吸をしていた。あの子も。
もう習慣づいた毎週の病院帰り、眩しい程に澄み渡った秋空に手を伸ばす。あと何日経てば、私はあちらへゆけるだろうか。
そんな事を考える時間が少しだけ、減った。
そんなあたり、精神科は全く無意味、無力というわけではないのだな、と失礼にも実感した。偏見が残る精神科に良い感情を持たないのは、事実通っている自分でさえそうなのだ。縁のない他人からしてみれば、理解出来ない物に他ならず、理解できない物を人は嫌悪し遠ざける傾向にある。本心は怖いから、だと思えば子猫の鳴き声に等しい。
私は、週の1日である土曜だけ、病院へ通う為にJRを使い45分かけて向かう。その1日が私を完全な引きこもりというレッテルから救い上げてくれている。母親は全く持って今の私の状態に不満なようだが、それすら受け流せるように少しはなったと思う。
毎朝5時半には起床して、まず昨日洗い終わり乾かしていたお皿達を食器棚へと片付ける。まだ眠っている家族を起こさないように、神経を使いつつ。
そうして、みんなの朝食の準備。基本、家族は寝汚いので手軽で素早く食べれるような、サンドイッチが多い。お腹が鳴るのを無視して、次は洗濯物を洗濯機から回収して干していく。
これが終わるくらいに、ちょうど家族が起きてくる。
癖のように窓から外を見る。今日は曇りだが、半引きこもりにはあまり関係ない。外出は買い出しに、母の車で行く時ぐらいだ。私は運転免許を視力の関係で取れないので、誰かに連れて行ってもらうしかない。
料理は私がするので、メニューを決めるのも私となると買い出しが出来るのも私しかいない。
家事は苦手な女性もいるようだけれど、私は結構好きな方だ。要はルーティーンワークの方が得意なのだ。0→1は苦手で、だけれど1→100は出来るタイプ。ベースがあれば、どれだけでも努力して上を目指す。
たとえそれを誰が認めてくれなくても。
「晴れか。良かった」
手早く適当に準備した自分の朝食を食しつつ、スマホの天気予報アプリで土曜をタップ。現れた晴れマークに、安堵する。病院へ行く為に乗るJRの最寄りは少し遠いので、その日の雨は気分を少しだけ下げる。今週も大丈夫そうだ。
初診で初めて会った、水澄先生とはそれなりに上手くやれていると思う。それよりもっと上手く歩み寄ってくれたのは、カウンセリングの心理士さんの方だったが。
155センチと小柄な私より更に小柄で色白、綺麗な顔立ちなのにどこか可愛らしさを残しつつある彼女の左薬指にはキラリと輝くピンクゴールドの指輪がしっかり嵌っていた。特段、それを羨ましいとは思わなかったけれど、意外にだけは思った。
この純粋そうに見える人も恋愛するんだな、と。私には全く理解出来ない事を、この人もするんだと少しだけ落胆した。
けれど、彼女は私に誰より寄り添うのが上手だった。逆を言えば仕事だからこそ、ここまで寄り添えるのだと感心した。同時に寂しくも思った。初めて本音を吐き出せる相手を見つけられたかもしれない、と期待すると共に軽く依存していたのだろう。
彼女はそんな私を、ずっと優しい言葉であやし続けた。
私は感情を表に出すのが苦手ーーーというか、自分の感情を誰にかに見透かされるのが嫌であまり表には出さない。だから彼女も私の扱いに困った事は、一度や二度ではないと思う。
それを何も言わず、その場に留まって毎日息をして毎日同じ事だけをしてのうのうと生きている私を責めもせず、前に進めと急かしもせず。
ずっと優しく、いてくれた。彼女だけだった。
水澄先生は、時折将来を促す事を言った。それが苦痛でしょうがなかった。けれどあれは、私も悪いのだ。幼少の頃から思い続けてきたあの一言が、私はどうしてもどちらにも言えなかった。
きっと困らせてしまう、それに軽々しく口にする言葉でもないし、普通の人はそんな事を言われてびっくりするだけだ。だから、と口をつぐんだ。
だから言えないまま、ただ毎日眠り食事を摂り、排泄をして、自分の生を突きつけられながら、それでもなんとか1日1日をやり過ごした。
喉の奥にまで溜まってきて、いつか爆発して溢れ出しそうな何かが、もう何なのかすら分からなくなった。
一番参ったのは、誰かとセックスをする夢を見た時だった。セックス自体に嫌悪感はない。やりたければやればいいし、それは遺伝子を残そうとする人間の性に他ならないと理解している。
でも私じゃない。今すぐにでも死にたい私に、そんな願望はないはずだと、首を振る。
お前は死ねない。死なずに、こうして命を繋いでいくんだよと夢にまで嘲笑われた気がして、朝から腹が立った1日だった。
【癒空、21歳初春】
21歳。
私の誕生日は元旦だった。嘘のような本当だ。だって確率で言えば、365人中1人は元旦が誕生日だ。それは結構な確率だ。世界人口がいくらだと思ってるのか。
20歳を迎えて1年過ぎた。なのに私は、何も成長せずいる。
高校時代からの友人達誰ひとりにも事情を話していない。皆、私が医学部で粛々と勉学に励んで忙しいのだと信じてやまない。チリチリと胸を焦がす罪悪感を見て見ぬふりをして、私は今日も手を動かす。洗濯物を干す為に、料理をする為に、お風呂掃除をする為に。
ある日、検索をかけてみた。スマホに打ち込んだ言葉に対して返って来た検索結果を片手間に眺める。
「ふぅん」
練炭、首吊り、OD、等々の普通に生きている友人達は知りようがないだろう言葉の羅列を、落ち着いて見ている自分が可笑しかった。
死ぬには一番手っ取り早く、けれど一番可能性が低いのは薬だろうと誰か見知らぬ人達の色んな経験談から当たりをつけた。
きっと死ねない。どうせ死ねない。それに少しだけ安心して、だけれど落胆して。
けれど、あの時の私は私を責める私自身に追い詰められて。もう正常な判断が出来なかった。
いっぱい頑張って。頑張った先に、何がある?死んだらなんの意味もないのに、私は近いうちにこの世からいなくなるのに。
もういい?もう頑張らなくていいと誰か言ってよ。呟いた言葉は誰にも届かず、地に落ちた。後を追うように、薬の瓶を持ったまま部屋に突っ立っている私の涙が零れ落ちていく。
水澄先生。泉さん。
また来週、と言った2人の顔を思い出しては俯いた。
ごめんね、と届きなどしない謝罪を口にして私は、薬達を飲み干した。
ーーーーーーーーーーー
薬を飲んでどうなるかなど、現実に体験してみなければ分からない。人によって薬の効果は千差万別だからだ。
飲んだ薬の中には眠剤が入っていた為に、少しの間眠っていたらしい。起きたら日が暮れようとしている夕空だった。
眠ってしまう前とは違って、胸がムカムカして気持ち悪さがあった。
トイレに行きたい、とそう思ってベッドからとりあえず降りようと身体を起こした時に、くらりと強烈な眩暈がした。平衡感覚が全く働かず、ベッドから勢い良く床に落ちた。
全身が痛い、と思うまでもなく、何が起きたのかも分からずただただ気持ち悪さにえづいて、苦しさに涙が出た。頭を起こしていると眩暈で不安定になるから床に少しの間、治ってくれと願いつつ這いつくばったままの体勢でいた。
ーーーーー惨め。惨めだなぁ。
乾いた笑いと共に、またえづいた。涙で視界がぼやけてしょうがない。手元に何があるのかも分からない。
「癒空?すごい音したけど、なにかあったーーー」
入るよ、と母親が入ってきた気配に、それでも何も返せずえづく。ゲホッ、と何度かえづいて迫り上がってきていた物が母親の足元に飛び散る。
「癒空?!あんた、なにしたの!!」
母親はこういう時、状況判断が早い。手がつけられずパニックになる時もあるが、今回はそうではなかったらしい。
ゴミ箱を漁る音がして、母親がこれなに!と叫ぶ。薬飲んだの、ねぇなんでよ、なんで...…!!と肩を揺さぶられる。
やめてくれ、と心底思った。また吐く。
心に出てくるのが謝罪ではなく、それかとまた自己嫌悪した。自分など嫌いだ。今までも今も。私は所詮、利己的で自己保身の強い、最低な女だ。
見放してくれ、と思った。
ーーーーーーーー
ツン、としたアルコール消毒の匂いが鼻をついた。人間、一番最後まで残るのは聴覚だった。今、ピッピッというモニター音を認識しているという事は、私は死ねていない。
ゆっくり目を開けていくと、他のベッドとカーテンで仕切られているのがカーテンの隙間から見えた。
「かかりつけのーーーー」
「はい....…」
低い声で誰かと母親が喋っている。医師だろうか。
タイミング良く、というか少しだけカーテンが開けられて、医師と視線が合った。
「目が覚めた?」
母親がえっ、と驚いてカーテンを更に開ける。
「癒空......…」
「叶さん、お薬たくさん飲んだ事は覚えてる?」
頷くと、医師が目尻を下げた。
「どうして飲んじゃったの?」
「.....……」
「言いたくない?」
「死にたかった、からです...…でも死ねないのも..…」
分かってた、と呟く。
「うん..…そうだね、あまり死ねないね。苦しいだけで」
罪悪感から母親と視線を合わせられず、かと言って医師とも死にきれなかった自分が恥ずかしくて、目を合わせられなくて私は俯いた。
「今ね、飲んじゃったお薬を早く排出できるように点滴を打っています。あと鬱陶しいかもしれないけど、酸素濃度と心拍モニターも付けさせてもらってます。万が一がないとも限らないので」
「..…はい」
「あとお母さんに聞いて、かかりつけの病院...…遠いね、うんまぁそちらにもこっちから連絡しました。でね...…」
「はい」
「入院をね、とりあえず今日だけでも様子を見たいのでして欲しいんだけど、いいかな」
「それは私ではなくて、母に....…お金がかかりますから」
「お金か...…」
医師が苦笑した。あけすけもないが、自殺未遂で入院すると保険適用外だ。一泊だけで何万飛ぶ事やら、考えたくもない。
「むしろ入院させてください、癒空あんた死にかけたのよ」
「そんな大袈裟な.....…」
「お母さんの言う事は間違いじゃないよ、叶さん。事実飲んだ量は多いし、病院に来た時、叶さんの心拍は下がってた」
「.......…」
「僕達は、叶さんの命を必死で繋いだ。大袈裟なんて言って欲しくはないな」
「.....…すみません」
「じゃあ...…まぁ今日は入院という事で.…良いですか、お母さん」
「はい、どうぞよろしくお願いします」
母親が深々と頭を下げた。これだけ見れば、なんの問題もない良い母親だ。
昔に比べてみればだいぶ緩和されたが、それでも機嫌が悪いと永遠に心を抉るような言葉の数々を飛ばしてくるのは、やはり傷つくし勘弁して欲しい。
「癒空、お母さん入院の荷物取ってくるからいったん家に戻るよ」
「うん....…」
小さく手を振って母親を見送った。ありがとう、と言うべきかごめんなさいと謝るべきか分からないまま、私はこんな事になった今も言葉達を飲み込む。
ぐちゃぐちゃだ。感情も頭も。膝を抱える。あの子のように。
カーテンがそっと開いた。顔を覗かせたのは、服からして看護師のようだった。
「看護師の鈴原と言います」
それなりのベテランだと、一瞬で分かった。オーバードーズした患者にどうやって接しようかと言う迷いが見て取れない。つまりそれなりに経験があるのだ。
「叶です.....…」
「ちょっとお話したいなと思って。入って良いかな?」
「どうぞ.......」
静かに入ってきた鈴原さんは、そのままベッド傍の丸椅子に座る。
「死にたくなるぐらい辛かったんだね」
「っ..........…」
瞬時に喉元が熱くなる。そうだよ、私、ずっとずっと昔から死にたかったよ。
でも誰にも言えない。言えなかった。肯定も否定もしない私に何か言う事もなく、鈴原さんは続けた。
「ちょっと見てて思ったけど、お母さんと色々ありそうだね」
今度こそ息を呑む。
「難しいよね、お母さんなんて。一番近い他人で、一番愛してくれるはずの人。だけどそれをしてくれない人だっている。叶さんは、寂しいままずっと頑張ってきたんだね」
酸素濃度測定器を付けたままの右手を鈴原さんが握ってくれる。
「頑張ったね」
私は首を振る事しか出来なかった。掛けられているタオルの上に音を立てて涙が滑り落ちていった。
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