見出し画像

恋のち討論

「降水確率が0パーセントだなんて、あり得ないと思わない?」

わずかに緊張の走る部屋で、わたしは小声で言った。
「99パーセントにすればいいのに。この世界の気象状況を完璧に予測することなんてできないと思う。万が一、億が一のために、1パーセントの余地は残しておくべきだと思うわ」

ラジオから流れる天気予報を聞きながら、わたしは不満を漏らす。
「90パーセントでも良いんじゃない」
恋人はそう提案をする。余地に厚みを持たせるつもりだ。
「そうね、90パーセントでも良い。でも、0パーセントも、100パーセントもきっと、あり得ない」
「あり得ないと断言できることだって、言ってしまえばあり得ないことかも知れない」
その瞬間、二人で積み重ねていたトランプタワーが、微かな音を立てて崩れる。

わたしの番だった。
タワーに橋をかけるところだった。
恋人が、そこで崩す、と笑う。立てる方が難しいのに、と続ける。
「じれったい遊び。大体、この全てのトランプで何段のタワーが作れるのかが分からないなら、一番下の段にいくつ並べればいいのかが分からないじゃない」
「つまりこの三枚のトランプでできた三角形が、kまでの…」
恋人がノートに繊細な数字で走り書きをする。優しく淡い文字だ。筆圧はもうすこし高くても良いんじゃない、と思う。

わたしたちの会話は、大体こんな感じだ。
くだらないと分かっていながら、ぼんやりとしたやり取りをすることができないのでとにかく詰めたがる。納得というおこがましい安心感を手に入れるため、言語を駆使して脳にしわを寄せようとしているのだ。

わたしは部屋を掃除し(汚れた部屋で定義の話なんかできっこない)、2の累乗に思いを馳せ(彼はなぜか2の累乗を待ちわびている)、窓にぶら下がる植物が何角形かを議論し(その後もちろん確かめた)、恋の曖昧さには悶々と煮詰まり、ジャムを煮る。

しかし世界には確かめない勇気というものが、きっと存在する。わたしは弱いのだ。

わたしたちは今まで、いくつもの議論を重ねた。
わたしたちにとっての議論というものは、眠って起きることに等しく身体に組み込まれた日常である。わたしたちの身体が恋にある限り、議論というものを避けては通れない。
つまりわたしたちの恋とは議論である。

黒板をバシッと叩いてわたしは言う。
「さあ、この難問を一緒に、解いてみようじゃないの!」
だだっぴろい講義室でおそらく彼はひとりきりで頬杖をついて、厚い教科書を開いてばかばかしそうに微笑む。
解かない勇気、というものが存在するということを、彼はずっと前から知っているのかも知れない。わたしは無駄に息を切らして疲弊する。解かなくてもいい事柄、について解きはじめる。

こんなにも混沌とした世界で、動き回れる自由が欲しかった。
混沌としているからこそ自由であるのに、わたしはいつも輪郭を望む。囲いが欲しいのだ。これは巣作り本能が故だ、と、かなりきわきわな理論でとりあえず場を収めなければ心が持たない。恋においてわたしはいつも、殻を破られたカタツムリのようだ。

もう一度言う。わたしは弱いのだ。
輪郭の無い生活を、他人と作り上げるなんてわたしには到底出来ない。
そう思いながらもほとんどの時間を他人と過ごし、うまくいったり失敗しながら多分ではあるけれど「輪郭の無い生活」というものを不器用なりに紡ぎ、ここまでやってきた。
それでもその実態を、未だ知ったことなんてない。

わたしは、わたしたちの恋の形をいつか彼が解いてくれるようなささやかな期待を持っている。なぜ彼なのかというと、単純にわたしは彼ほどの聡明な脳と知識を持ち合わせていないからだ。この考え方は彼によると、「自分で自分を信用できないだけでしょう」ということになるらしい。

そうかもしれない。

まったく生きるのに向いていないということはこういうことよ、と言うと、わたしの恋人はわたしを叱る。その男性がそんなわたしを好きだと言う。まったく、恋とは軟体生物なのかしら。
「いや、軟体生物っていうのはさ……」
しまった。彼の専門は生態だった。

もうすぐ、わたしたちは記念日を迎える。
彼ならばこの数字をどうにかして2の累乗にこじつけ、わくわくとする日にするのだろう。わたしはきっとそれを隣で聞いている。わたしは彼ほど賢くないので、途中で計算するのが億劫になって追いつけないでいる。
「大体、2の累乗だからって、何が起こるわけでもないわよ」
「恋人になってから1年が経ったからって、何が起こるわけでもないさ」
「ロマンスもなにもあったものじゃないわ」
「数字にはロマンスしかないさ」

そのうち二人でふと思う。
そういえばわたしたちはなんの話をしているんだったかしら?

詰めない勇気、というものがきっと存在する。
勇気を出してわたしは恋という宇宙を泳ぐ。時折、息を切らしながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?