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改善された大人にはなれないけど

人は自分の知っている範囲でしか他人のことを語らないなぁと思う。もちろん全員じゃないけど。

若者が親や大人に対して反抗的になるのもそれが所以だろう。
「勝手に決めつけんなよ!」
「それだけじゃねえんだよ!」
抱えている問題や自分という人間を、一面的で広がりや深まりのない人だと決めつけられた気がして苛立ってしまう。

今の大人たちもかつてはそんな子どもたちだった。なのになぜ自分たちは改善して大人になれなかったのだろう。

それはきっと子どもたち自身も、
「大人にはわかるわけない」
と大人を画一的にしか捉えていなかったからだ。今も昔も子どもたちは、自分より上の大人たちが昔は自分と同じように社会からの圧力にもがいていたなんて想像できないだろう。

自分の考える決まりきった人物像を、大人から子どもに移しただけ。もしくは子どもから大人に移しただけ。

だから、子どもも大人も「あなたはこうだからこうしとけばいいのよ」と決めつけられると苛立ちを覚えるのだろう。違うのに、と。ちょっと言葉を変えれば印象もだいぶ変わってくる。「あなたはこういうタイプの人だと思うんだけど、どう?」相手にも答えを求めることで、相手の思想の自由を認めることになる。自分自身の幅も広がってゆく。

相手は立体的な人間であり、自分の知らない面を持っていると忘れないこと。人は平面ではない。自分の決めた人物像やら群衆像があると、人はそれに対して無意識に嫌悪感や好意を抱いてしまう。そうすると息苦しくなってしまう。ならば最初から、「あーそういうこともあるかー」「そういう一面もあるよねー」くらいに捉えておけば、対象となる人物像に深みが生まれ、自分の心理面でも余裕が生まれるだろう。

アイツはバカに見えるけど、実はそれはアイツのほんの一部だった。あの人は四角四面で真面目な人だと思ってたけど、実は違った。あの人は容姿に恵まれて楽してるみたいだけど、実は戦っているみたい。若い奴らは俺達より苦労していないと思ってたけど、どうやらそうではないらしい。大人たちは自分たちより豊かに生きていたみたいだけど、実は俺達と同じように耐え忍んでいた人もいるようだ。そうか〜。そうかもなあ〜。だって、自分と同じ世代の人間でさえ、一人ひとりこんなに違うんだもんなあ〜。

「そっか〜そういう面もあるかもなあ〜」

そのくらいで物事を捉えていたほうが気が楽だ。目くじら立てずに穏やかに生きることができる。

さて、わたしも自分より上の大人たち、自分より下の人たちを、わたしは一緒くたにまとめて見てはいないだろうか。その人の持ちうる幅や深みを、勝手に狭めてはいないだろうか。より改善された大人になれなくても、広い目で見られる人間に、わたしは近づいているだろうか。

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