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闇の根っこを掘ってみる。父との関係。

母と同じくらい触れづらい人。いや、あんまり触れたくない人。それが父親である。両親二人とも嫌いってなかなかだな、私よ。

母に関して、この人の元々の性格という部分もあるかと思うけど、明らかに父と母の関係が影響していることを私自身理解している。歪んだ娘への愛情の理由を私は理解している。

正直書きたくない。でも書く。書いて手放したいから。
そんなわけでちょっと長いです。

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子どもの頃から父親はいた。ただし同居していなかった。母が仕事でいないときに家に泊まりに来て面倒をみてくれる人。それがたぶん一番古いイメージだと思う。料理ができる人ではないので、近所の洋食屋さんに連れてってもらうのが定番だった。

保育園の年長から小学校低学年くらいで、私はすでに疑問を持っていた。

この人はお父さんなのか?

友達のお父さんは家にいて一緒に住んでるけど、うちは違う。一緒に住んでいない。必ず帰っていく。でも周りの人もお母さんもこの人を〇〇ちゃんのお父さんと呼ぶ。

不信感のある意味始まりだったと思う。5歳でこんなこと考えてたらそりゃ歪みますよ、子どもの頃の私よ。でもそれを相談する相手もいなかったし、相談しちゃいけないことなのだと漠然と思っていた。父のことについて、私は誰にも触れてほしくなかったし、自分からも触れたくないと思っていた。

父とよく旅行に行ったことも覚えている。母はあまり旅行が好きな人ではないので、違う世界や珍しいものを見せてくれたのは父の方だったと思う。そういう意味では私の外の世界への関心を作った一人ではあるのかもしれない。ただ、父と旅行に行くときに自分の名字が普段使っているものから父の名字に変わる(変える)必要があることがずっと気になっていた。

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小学校低学年くらいの時だったと思う。ある日、父がうちに来ていた。珍しく母もそこにいた。私は寝ているフリをしていたのか、それとも寝たことになっていたのか忘れたが、とにかく寝室にいて布団をかぶっていた。話の内容は分からないが、父と母は急に怒鳴り合いの喧嘩を始めた。二人ともかなり言い方がキツいので、結構な罵り合いだったと思う。そして私は布団の中で耳をふさぎながらその時間が過ぎるのをただただ待っていた。

この耳をふさいでいるイメージ、いまだに鮮明に残っている。大きな音や大きな声が苦手なのはきっとここからきている。

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小学校3年生くらいの時から、父はうちに泊まりに来なくなった。その代わり、母が夜勤でいないときに外で夕飯を食べた。そしてお小遣いをもらった。小学生に一万円とか平気で渡してきていた父を大人になって軽蔑した。そして父は必ず「これお母さんに渡して」と封筒を渡してきた。最初の瞬間からそれがお金であることを私は知っていた。でも知らないフリして子どもっぽく「わかった」と受取っていた。そして同じく何も知らないフリをして「これお父さんから」と母に渡していた。

私はこの一連のやり取りが嫌いだった。子どもにお金の受け渡しをさせるって、残酷だと思わないのだろうかと。私の中で、父は「お金をくれる人」という存在になっていた。一緒にも住んでいない、私の日常も母の日常も何も知らない人を親だとは思えなかった。

気づけば、父と会うことは私の中でお金の受け渡しをするための義務化していた。会いたくて会うことなんて一度もなかったと思う。会いたいと思う対象ではなかった。

小学生の時、親戚の家に遊びに行っているときに年の離れたいとこから、「あの人は〇〇ちゃんの本当のお父さんじゃないよね」と聞かれたことがあり、私は分からなくなった。どう答えたのか分からないけど、そうかもしれないと思ったのは覚えている。

中学、高校と勉強や部活などでそこそこ忙しくなり、必然的に父と会うことがなくなった。結果として当時更年期の症状が出まくっていた母と二人の時間が増えてそれはそれで面倒だったが、私は結構勉強に逃げていたのでこの辺はあまり記憶がない。幸いなことに。

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高校を卒業し、留学に向けての準備をしている中で、二十歳の誕生日を迎えた私に、母は急に父のことを私に話してきた。

お父さんには家族が別にいて、私とは不倫関係だった。でも妊娠してお腹の中にあなたができたとき、お父さんは産んでほしいって言ってくれた。だからすごく迷ったけど産むことにした。姉の病院で出産できることになったし、一人じゃなかったから産めると思った。

一人親で大変だったけど、金銭的な面でお父さんはいつもサポートしてくれたし、あなたもこんな環境でも非行に走ることなくまっすぐ育ってくれた。でも成人して、大人になっていくあなたはお父さんのこと知っておいた方がいいと思って、ずっと悩んでたけど二十歳のお誕生日に言おうって決めてたから、だから今話した。

お父さんにはあなた以外に子どもが3人いる。みんなあなたより年上だから異母兄妹にあたる人たちよ。

目の前で泣きながら話す母の姿を私は無表情で見ていた。

どこか想像していた部分もあるし、でも同時にどこかそれを否定したかった部分もあって、いずれにせよあまりに突然全部聞かされたので、どう応えるのが正しいのか分からなかった。私は最後まで涙を流さなかった。ただ、ずっと無意識に欲しがっていた兄がいるという事実だけがちょっと嬉しかったのを覚えている。一生会うことはないのだけど。

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そこからの母との関係は冒頭の記事に書いた通り。

母は娘に全部話し切ったところで終わったと思っている。母が自身で抱えてきた苦悩をそこで解き放ったと思っている。だから娘の私からすると、勝手に吹っ切れているように見えた。私は全くその逆の立場に立たされたというのに。いきなり母が背負っていた重たい荷物を、一方的に投げつけられ、そのまま背負わされたような。

この急に全部聞かされた事件の真っただ中に付き合っていた人がいて、その人も母子家庭だったというのもあり色々支えてもらっていた。おかげでなんとか自分を保てていたのを覚えている。そして私には目の前に留学するという一大イベントが控えていたのも幸いしたんだと思う。父のことにも母のことにも目を向けなくてよかったから。

その後の私はこんな感じ(どんな感じだよ。笑)

私は妻子ある人と関係を持ったことが何回かある。つい先日まで書いてた人もそうだけど、なんとなくそういう人を引き寄せるというか引いてしまう傾向があった。歳が10コとかそれ以上上の人が多いのは、父の影響があるからだと思っている。私はどこかで父性を求めているんだと思う。

馬鹿だなぁと思ってしまう。母を見ていて絶対に幸せになれないやつだと分かっていても、そういう人を引いてしまう自分。ほんと馬鹿。あぁ馬鹿。でも、先日まで書いてた人↑との関係を終わりにする時に、初めて抜け出せた感じがあった。自分の頭の中で色んなものが整理された感じがあった。私、もう父性とかいらんし。

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不倫、それ自体についての考えはここで書いた通り。もちろん全肯定はしないけれども否定もしない。ある時点で必要な関係はあると思うから。人様の事情は私には分からないから。

ただ、私はその不倫の末に生まれた微妙な子どもという立場であり、その立場から言わせてもらうと、関係は二人で完結しておいてほしいということ。その関係に未来がないのなら、そこに二人の子どもはいらないのではと思う。私は子どもの頃を振り返って、やっぱり幸せではなかったと思うし、この歪み、ぶっ飛び、社会不適合な変態という私が出来上がったのは、残念ながら幼少期が強く影響していると思うから。

そしてこの諸々が吹っ切れるまで、なんと四捨五入して40年くらいかかってしまったという事実。私がヘタレだからというのもあるかもだけど、子どもの頃に歪められたものは簡単には戻らない。その根本の問題と向き合って解決するまで直らない、直せない(と、アドラー先生が書いていた)。私はアドラー先生の本と出会い、自分がどうしてこうなったのか、ビックリするほど腑に落ちたのを覚えている。私はずっと、ずっと、5歳くらいに布団の中で耳をふさいでた子どものままだった。被害者ぶっていたんだと。

だから、私は今年に入ってやっとこさ母と向き合い、その結果はイマイチだったとしてもそこからやっと動き始めた。そして父にはもう向かい合わないと決めた。もちろん義務的に会う必要があれば会うし、大人の対応をするつもりである。でも、私の中では母も父ももう関係ない。血の繋がった肉親だけど、私にとってはもうどうでもいいのだ。私、自分の人生で忙しいし。

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こんな私でも友達がいて、結婚してくれた人がいて(別れたけど)、このnoteを読んでくれる人がいて、最近やっと、生きてていいこともあるもんだな、ははは、と思えるようになりました。持ちつ持たれつ、人様に適度に迷惑かけながら、かけられながら楽しく生きて行きたいと思う。

父も母も嫌いですが、なんとかなるよ、という話でした。

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