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【自己紹介】40年以上振り返った自分史

自分自身を振り返る意味も込めて、自分史風な自己紹介を作成しました。

生まれ育った環境・経験・これらの感じ方によって今の自分があるはずなので、自分史を踏まえると自己紹介しやすいと考えました。

なお、厳密に年齢順で書いているわけではない点と、細かい自分史は省略している点について、ご理解ください。

座右の銘は「なにくそ根性」

中小企業の営業マンだった父と専業主婦の母に生んでもらいました。兄を含め4人家族。当初、お風呂が家の中にない戸建の借家に住んでいました。

小さいころは、人見知りが激しく、人前に出るのが苦手だったことから、男は強くなきゃいけないと、父に厳しく教育されました。

そして、小学4年生のとき、父が脱サラして、鉄鋼材料の加工を請け負う会社を設立しました。会社は自宅で、2tトラック1台からのスタート。

苦労も耐えない中、やがて小さいけど自前の工場をつくり、夫婦二人三脚でがんばっている背中を見て、僕にも親譲りのなにくそ根性が芽生えました。

なお、父の会社は時代の流れと共に業績が下降し、今から約10年くらい前に廃業しましたが、親子共に悔いのない選択ができたと考えています。

得意なことは地味にコツコツやること

小さい頃から、工作や絵画のような一人でコツコツやることが好きだし得意でした(よく徹夜して作品づくりに没頭したときもあります)。

小学生のときに、人物画が千葉県の絵画コンクールで入選したり、中学生のときには、お寺をメインとした風景画が世界児童画展で入選しました。

こういった成功体験もあって、クリエイティブなことにどんどん興味が沸き、物事を分析して表現する能力が高まったのかもしれません。

またこれらは、働くための土台になっています。大勢を引き付けるカリスマリーダータイプではなく、一球入魂の職人タイプと自己分析しています。

そういう意味で、弁理士の仕事は、僕にマッチしているし、新しい技術やビジネスに携われるので、いつもワクワクしています。

人生初の成功体験は小学生時代の部活動

小学生のときからバスケットボールをはじめました。部活ではとても厳しい顧問の先生でしたが、愛情ある指導のおかげでみるみる成長しました。

そして小学6年生のとき、市内最弱のバスケ部が千葉県でベスト4まで上りつめたのです。やればできることを感じられた人生初の快挙でした。

ちなみに、運動は基本的に何でも好きです。ただスキューバダイビングは耳が痛いので厳しく、スカイダイビングは高所恐怖症なのでできません。

今のメインは、自転車とゴルフです。自転車は運動不足解消になるし、下半身の筋トレにもなります。通勤で活用すると一石二鳥です。

ゴルフは、平均100台で、今の目標は平均90台。ラウンドだけじゃなく、ギア(道具)の知識も増えたので、ますます楽しくなってきました。

人生初の転換期は中学生時代に心底後悔した苦い経験

小学生のときの学力は可もなく不可もなく、といった感じでした。通信簿では5段階評価の3が多く、普通の子でした。

ところが中学1年生のとき、悪気もなくやらかした悪ふざけが大ごとになり、突然夜に学校から呼び出しがあり、親にも泣かれました。

特に、母親を泣かせるもんじゃないな~と、人生で一番の後悔となりました。そのため、その出来事以来、改心して猛烈に勉強しはじめました。

その甲斐もあり、通信簿では5段階評価の5が多くなり、千葉県立八千代高校に合格しました。我が家にとっては快挙でした。

誤解を恐れずに言うならば、若いうちに怒られて改心するくらいのやんちゃな経験は、その後の人間形成に大きく役立つと感じています。

人生初の挫折を味わった大学受験

ただ、高校生のときは、暗記学習に頼ってしまい、根本的なことを理解する習慣が足りなかったことから、高校3年生の大学入試は全敗でした。

そのため、受験浪人して予備校に通いながら猛勉強しました。その甲斐もあり、成長著しく、一時は東大合格レベルのクラスにまでいきました。

ところが、逆にクラスのレベルが高過ぎて着いていけずに成績が伸び悩み、二浪寸前まで落ち込みましたが、滑り込みで明治大学に合格しました。

でも、明治大学の校風は僕にとてもマッチしていて、生涯の親友もできたし、その後の人生設計にも大きく役立つ学生時代を経験できました。

大学卒業後は、明治大学大学院に進学。C言語のプログラムをMS-DOSマシンで実装して試験機をつくって修士論文を書いた経験は今も役立ってます。

人生初の海外旅行でかわった人生の価値観

大学3年生のとき、はじめての個人で旅行にいったアメリカのフロリダとニューヨークで人生の価値観がかわりました。

フロリダでは、単身渡米し富裕層向けの寿司バーを経営する日本人オーナーを訪ね、アメリカンドリームを目の当たりにしました。

またニューヨークでは、ドミトリーで外国人の皆さんと一緒に寝泊りしながら、世界経済の中心・流行の最先端・自由な雰囲気を肌で感じられました。

それと同時に、1か月ほど日本を離れている間、異国の空を見ながら、家族や友人のありがたみをはじめて知りました。

旅行以降、世の中のために自分ができることを残したい、自分の周りの人にいつも感謝の気持ちを持ちたい、と強く意識するようになりました。

ボランティア活動とルームシェアでアップした人間力

大学院生のときから、フィリピンの孤児院をサポートするボランティアチームに参加しました。主な活動内容は、寄付金集めと現地訪問でした。

利害関係のない同志たちと共にイベントを企画運営し、孤児院の子達と愛情一杯に心を通わせた経験が、間違いなく人間力をアップさせてくれました。

それが切っ掛けで、ボランティアチームの友人4人で、29歳(2007年)から4年間、割安な家賃の一軒家でルームシェアもしました。

ホームパーティーなど楽しいことも、ルームメイトとの性格の不一致で喧嘩したことも、ルームシェアしなければ得られなかった貴重な経験です。

目的意識を持った仲間たちとわかちあった数年間で、自分のためより人のためにすることの楽しさやそれによる達成感のほうが絶大と体感しました。

大企業勤めで揉まれた社会人としての実力

2003年、大学院卒業後、横河電機㈱に就職しました。配属先は、自ら希望した、製造業向け生産管理システムの営業技術部門です。

自分の個性を発揮するには、社内にこもるエンジニアではなく、お客様と現場で接触できるエンジニアとして経験を積みたいと考えたためです。

その後、入社1年半で日野自動車㈱に単身出向し、10億円規模の自動車部品の受発注管理システムの再構築プロジェクトの推進を命じられました。

そのおかげで、システム構築の考え方・プロジェクトの管理・業務カイゼンのノウハウ・マネジメント能力が身に付けました。

これらはどんな仕事にも活かせると感じていたので、その後の社会人人生を切り開く大きな自信となりました。

脱サラして弁理士になりたいと思った理由

社会人として実力がついたころ、大企業で得られたスキルを活かして、規模に関わらずプロとしていろいろな会社を支援したいと考えました。

また、父の会社では、試行錯誤して発明した金属加工品の検査ノウハウが外部に漏れてしまい、歯がゆい思いをしたことがありました。

そこで、皆さんの大切なアイディアを特許などで守る専門家であり、日本のみならずグローバルに活動できる弁理士になることを決意しました。

弁理士には、新たな技術やビジネスモデルの分析力、特許法など法律の理解力、特許の正当性を第三者に伝えるプレゼン力が求められます。

自分のキャラクターを活かせ、使命をまっとうでき、やりがいを感じられる仕事を見つけられたため、29歳のときに横河電機を退職しました。

ドロ沼の弁理士試験から這い上がれた自信

弁理士は、弁護士さんや税理士さんと同じ国家資格で、試験は1年に1回1次→2次→3次まであります。合格率は5~8パーセントくらいです。

合格者の出身大学で多いのは、上から東大、京大の順。つまり、ライバルは高学歴者ばかり。平均受験回数は4~5回。難関資格の一つです。

僕は受験4回目(勉強期間は5年)で最終合格できましたが、不合格のたびに、底なし沼にはまってしまった気分になり、何度も心が折れかけました。

4回目の受験の年には、仕事と勉強に追い込まれて精神的ストレスがかかり、急性の腰椎椎間板ヘルニアで一週間寝込んだこともありました。

自分の限界に挑戦し、やり切って結果を出せたため、それが自信となり、できないことはない、まずはやってみよう、という思考が定着しました。

10年の下積みで築き上げた自立の土台

弁理士試験合格以前から、特許事務所で働いていました。特許事務所とは、弁理士でなければ設立できない業態です。

弁理士の働き方の王道は、企業の知的財産部に就職するか、企業から仕事を受ける特許事務所に就職するか、独立開業するか、の3つです。

僕の場合、2009年(32歳)に弁理士試験に合格し、いずれは独立開業も視野に入れ、まずは特許事務所での仕事に専念したいと考えました。

特許事務所を開業するノウハウ以上に、特許の仕事をサービス業としてお客様に提供できる価値を体系化できたのが、10年間の最大のメリットです。

インターネット世代の方にすれば10年は長過ぎるかもしれませんが、40歳前半でユニークな自立の道を作れたのは、僕にとって目標達成です。

上場企業の社外役員を経験して体感した会社経営

2014年(37歳)で弁理士5年目、経験値が増してきたとき、知人の紹介で㈱テラプローブの非常勤監査役員に就任することになりました。

監査役は、会社経営の適法性に問題があれば取締役に指摘するのが仕事ですが、特に「情報管理」に着目し、弁理士の強みを活かして取り組みました。

会計監査は監査法人がいたので、主に業務監査が中心でした。役員へのインタビューや内部監査部門との連携など、持ち前の人間力を発揮しました。

業務改善、構造改革、事業譲渡、社屋増設、事業計画、業績予測、投資判断、多角化など、監査どころ満載でしたが、無事に契約満了できました。

約5年間の社外監査役員の経験で、会社経営のいろはや、社長をはじめ重役やリーダーの方々の熱意や苦労を肌で感じられたのが、大きな財産です。

初心にかえって意を決した独立開業

2019年(42歳)所属先の在籍期間が10年監査役の仕事も終了し、元号が令和に変わるため、独立開業のタイミングかなって思いました。

父が脱サラして独立開業したのも42歳で元号が平成に変わったときと聞いて、これも縁かな~と感じましたが、決断するまで時間がかかりました。

ものすごく怖かったからです。大丈夫か?家族を養えるか?失敗したらどうする?ネガティブ思考のオンパレードで体重が5kg以上減りました

でも、家族や友人、長年お付き合いいただいた方々からのご声援をエネルギーに、最後はえいやーの気分で、独立開業を選択しました。

僕にとって「自分の人生を選択して歩むこと」が生涯のテーマです。知恵と勇気を持って、今後も選択し続けたいと考えています。

家庭で鍛錬されている忍耐力・包容力・共感力

ルームシェアでもそうでしたが、結婚して家庭を持つと(さらに子どもが生まれると)、一つ屋根の下で自分以外の人と生活することになります。

当たり前なんですけど、自分がその立場になって痛感しているのは、自分のことよりも優先すべきことがある、ということです。

夫婦関係も親子関係も、自分の損得を度外視すること(むしろ度外視することが幸せと思うこと)が、円満な秘訣と考えています。

自分の気持ちを押し殺すのではなく、意に反することがあっても、自分を水面に例えるならば、静かに波立たない精神状態が大事、ということです。

気持ちを表現するときは、その前に一呼吸して、冷静に、相手を尊重しているか自問自答してから話するように、日々苦行しています。

父としても経営者としても学び続ける教育の本質

2018年に子どもを授かりました。それから、今もなお、怒涛の日々が続いております(親になって、自分の父母の苦労がようやくわかりました)。

独立もして、まだまだこれからいろいろチャレンジしていきますが、一方で、現役としては折り返し地点に来たとも考えています。

そのため、ますます強く考えることは、後世への教育や引き継ぎです。少しでも役立つものがあれば、誰であれそれを活かしてくれたら嬉しいです。

もちろん、その人の資質や考え方が前提ですが、教育という観点でいうと、発信し続けること、尊重すること、対話すること、が大事と考えています。

難解な表現や事象は用いず、わかりやすく丁寧に想いを持って伝えることを意識し続けて、子どもにも接していきたいと思います。

開業後3年にして新たなスタート

2023/2/5追加

2022年4月に個人事業主から法人成りしました。「弁理士法人」という弁理士専用の法人格。会社として信用を高めることに尽力します。

開業してから「まず3年」というジンクスをクリアでき一先ずホッとしています。ただやりたいことが沢山あるのでまだまだこれからです。

また同時期に第2子(長男)を授かりました。第1子(長女)が幼児でまだまだ手がかかるため、奮闘の日々はしばらく続きそうです。

でも家族が増えて家の中が明るくなりました。長女も姉の意識を持ち始め、それまでよりも自分のことを一人でできるようになってきました。

一家の大黒柱として仕事を優先していますが、育児も今しかできないと思っているので、できる限り両立を目指して取り組みます。

まとめ

個々の資質・出来事による心境の変化・進路による環境の変化など、人生いろいろだと思います。

素直な自分で、過去を振り返り、未来をワクワクし、布団に入って今日もいい一日だったな~と思えれば、豊かな生き方かなって感じています。


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